【第13回】突然できる、頭上運搬 著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

80代の人に残る記憶

 

頭の上にものをのせて運ぶ、「頭上運搬」を追っている。日本では、伊豆諸島、南西諸島、瀬戸内沿岸、志摩、などで見られた、といわれているし、アフリカや東南アジアなどではごく一般的に、いまも使われている運搬方法である。

 

いままでの連載で書いてきたように、頭上運搬では、手では運べないような重さ、具体的には30キロ以上のものを、何㎞にもわたって運搬することができる。

 

日本国内では、地方にもよるものの、2019年現在、頭上運搬をしていた地域に生まれ育った80歳以上くらいの女性は、頭上運搬の記憶があり、いまでも、やってください、というと、できますよ、という。

 

これを読んでおられる方の多くは、それでは、はい、いまから頭にものをのせて運んでください、といわれても、まず、できないと思う。やったことがないであろうし、見たことも、おそらく、ある人の方が少ないだろうし、だから、はなから、できない、と思われるだろうし、おそらく、現実に、できないと思う。

 

いままでの聞き取りでも、頭上運搬をおこなっていた人たちは、幼い頃から日常的に頭上運搬をしていた。だいたい4歳くらいから、頭の上に薪などをぽん、とのせられて、運び始めたことが多く、実際の運び手としての労力が期待される思春期には、すでに頭上運搬に慣れていて、重いものがのせられるようになっていた、という話を聞いてきた。

 

これは、ものごころつく時期の幼い頃から習熟してこそ、そして、できると思う「意識」があるからこその、身体技法なのだろう、と考えていた。誰でもできる可能性はあるが、幼い頃から周りがやっているのを見ているし、自分も何かしらを頭にのせていたからこそ、できる、というものであろう、と考えていた。大人になってからやろうとすると、かなりの練習と習熟が必要とされる、と思っていたのだ。

 

 

カンボジアの強制労働で運んだご飯

 

カンボジア在住の助産婦、ナリさんが生まれたのは1956年である。2019年現在、60歳を少し出たところ。お父さんは地方の役人で、十分な地位と収入のある方で、1960年代、70年代初めの、フランス植民地の雰囲気の色濃く残るインドシナの街、プノンペンで闊達な少女時代を送っていた。

 

1975年4月17日、ポルポト派による、突然のプノンペン住民強制移住が始まる。プノンペンに在住するすべての人は、「すぐにこの街を出るように、3日間だけだから、荷物はそんなにいらない」といわれ、わずかの衣服と食料を持ってプノンペンを後にしなければならなかった。

 

それからあとのカンボジアの方々の苦難の歴史については、多くの記録があるのでここに詳細は書かないが、数え切れない人たちが殺された、大虐殺の時代となってしまった。プノンペンを強制的に移動させられた人たちは、年齢ごとのグループに分けられ、農地における強制労働を強いられる。ナリさんも、慣れない田植えや稲の収穫作業に明け暮れる。

 

お嬢さんとして、プノンペンでお手伝いさんのいる家庭に育ったナリさん。まわりの女性たちが頭上運搬をしているのは見ていても、自分は一度もしたことがなかった。お嬢さん育ちの人はそういうことはしないのである。

 

フランス語も英語もできる大学1年生だったが、もちろん、強制労働の場では、そういうことは、ひた隠しにしていた。ポルポトの兵士たちは、知的階層の人たちから、殺していったからである。ナリさんは字は読めないふりをして、父親はシクロの運転手だった、とかいって、出自を隠していた。もちろん名前も偽名を使った。

 

そんなある日、女性たちが働くようにいわれたフィールドは、食事を作る小屋からは、1㎞くらい離れていた。昼食の時間には、女性たちがいる場所まで食事を運ばなければならない。

 

ナリさんと、もう一人の女性が、食事を運ぶ役目になり、キッチンに呼ばれる。そこで一人はスープを運び、ナリさんはご飯を運ぶことになる。

 

炊きたての熱い、50人分のご飯を運べ、というのである。とても手では持てない。二人で呼ばれたから二人で持つことができるかというと、もう一人は、天秤棒を使ってスープを運ばなければならないので、二人でご飯を運ぶことはできない。

 

当然、一人で、頭にのせて運ぶしか方法はない。頭の上に、布をしき、その上に重くて熱いご飯の入ったバスケット(ざる)をのせて、1㎞の道をナリさんは懸命に運んだ。

 

生まれてから一度もやったことはなかったですけどね、運ばなければ、殺されるかもしれないし、というか、命令を聞かなければ殺されるんですから。まず、殺されます。それに必死でフィールドで働いている仲間たちはお腹をすかせて待っているんですよ。私が運ばなければ、食べられないし、落としてご飯をだいなしにするわけにはいかない。

 

だいたい、ご飯が食べられなくて、薄いおかゆばかりしか出なかったこともあるから、ご飯がある、ということがごちそうなのに、もう、運ぶしかないですよね。やったらできました。

 

……ということだそうだ。手をはなすことはできず、片手を添えながら運んだが、やれば、できた、というのだ。

 

 

思春期に初めて運んだ芋のざる

 

2019年現在、83歳の、沖縄、石垣島に住むハツエさん(仮名)も、お嬢さん育ちだったので、幼い頃は頭にのせて運ぶ必要もなかったし、やったこともなかった。

 

両親ともに戦時中に亡くなってしまったから、戦後、なんとかして兄弟とともに生きていかねばならない。思春期に入ってから、はじめて、自分の体重より重いような芋を、いままでやったこともなかった頭上運搬で、畑から家までの6、7㎞に及ぶ道のりを運ばなければならなくなったのだという。

 

しかも、彼女は、30キロをこえるような芋の入ったざるを、「自分で」頭にのせていたというのだ。

 

そんな重いものは自分では頭上にあげられないから、だれか別の人にあげてもらって、また、降ろしてもらう、という話は聞いたことがあったし、自分ではのせられないから、まず、石のような台にのせてから頭にのせた、という話も聞いたことがあった。

 

ハツエさんは、自力でまず、たくさんの芋の入ったザルを膝にのせ、そこから耳の脇を通して少しずつ自分の頭の上にのせたのだという。

 

「耳の脇ぎりぎりであげていくから、耳がちぎれそうなほど痛かった」。

 

重いものを頭の上にのせたときは、両手をはなすことはできず、必ず片手で、ザルをつかんでいた。片手でザルをささえ、もう片手は、振る。片手だけでも、振らないと、歩けない。

 

本当は両手を振った方がよいので、軽い時は両手を振るけれど、重たい時は無理だから片手だけでも振る、というのである。手をあげていると疲れるから、時折、ザルを支える手をかえる。

 

誰にも教わっていないし、誰にも教えていない。やらなければならなかったからやるようになった。

 

自分たちよりも若い世代(2019年に70代の人たち)は、もう、リヤカーも自転車も使えるようになってきましたし、車もほどなく出てきましたから、頭では運んだことはないでしょう。

 

なんどもいいますが、誰にも教わった覚えはないし、自分も誰かに教える気もなかった。これは、やらなければならない、と思えばできるもの。人間の本能に近いものではないですかね……、とハツエさんはいうのだ。

 

カンボジアや戦中戦後の沖縄などのような、きびしい非常事態は、もう二度と訪れて欲しくない。彼女たちがむりやり重くて熱いご飯や、自分の体重より重い芋を運ぶような時代は、もうきてほしくない。そんな過酷な労働が必要ないように、わたしたちは運搬道具や車を作ってきたのである。

 

しかし、彼女たちのいう、「なんの練習もしていないけれど、やろうと思えばできた」という言葉と、頭上運搬の姿の美しさをみると、人間本来の体使い、というものについての、大いなる示唆がまだまだ隠されている、と思うのである。

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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