【第2回】「三世代」著:三砂ちづる
三砂ちづる『少女・女・母・婆 〜伝えてきたこと、つないできたこと、切れてしまったこと〜』

いつのまにか心にあった、いつか着物を着たいという思い

 

「身体技法」とか「知恵」と呼ばれるようなことは、三世代で完全に忘れられるらしい、ということは、経験的にも、本当の意味で優秀な助産師たちの言葉からも、わかっていた。「身体技法」や「知恵」などと、たいそうなことを言わなくてもかまわない。単に、具体的な「一つの方法」でさえも、同じことである。三世代途切れると、三世代目はもう、何が何だか、意味さえわからなくなってくる。

 

ほぼ毎日のように着物を着ている。はっきりした契機があるのでよく覚えている。私には、いつか着物を日常的に着たい、つまりは、結婚式やら成人式やら入学式やら、なんらかの「式」の特別な時に着るのではなくて、日常的に着物を着たいという思いがあったのだ。

 

それはどこから来た気持ちなのかわからないが、私の中にいつも、あった。起源は闇の中だ、と、レヴィ・ストロースは言ったが、それは文化や風習のみに当てはまるのではなく、一人一人の意志や行動にも当てはまると思う。
いったい、毎日着物を着ようという思いがどこから来たのか、説明できない。どこからかやってきて、私の中にすみつき、いつしか表に出るようになった思い。幼い頃から伝統衣装というものに憧れ、二十歳をでた頃には、タイやインドネシアや韓国の伝統衣装を手に入れて着たりしていた。

 

いつかは、だから着物を着たいと思っていたのである。人生も黄昏に向かおうという40代半ば、2003年の秋に、「着物が着たいなら教えてあげましょう」という人が現れ、一式着物をくださって、私は日常的に着物を着るようになった。それが契機だ。

 

昔の人は確実にやっていた「洗い張り」という仕事

 

それからほぼ毎日、少なくとも「仕事」の時や、きちんと人に会うときには着物を着ており、着物は、望んだ通り私の日常着となった。

 

着付けなどというものは、友人に習った一日だけなので、まともな着付けは知らないとも言えるが、日常的に着物を着るには不自由はない。毎日来ていると、着方も覚えるし、知らないことは知っている人に聞けばいいので、まあ、普通に着ているのだ。しかし、着られるけれども、手入れができない。着物はもちろん、洗濯機に入れて洗えるようなものではなく、手でゴシゴシ洗うものでもなく、手入れというのは「ほどいて」「洗い張りをして」「縫い直す」のが基本であった。今の衣服の日常とは程遠い話である。

 

着物はそのまま洗うと、縮んで型が崩れる。だから、縫い上げてあった着物を全部解いて、それぞれ直線の一枚の布に戻し、その布の状態で洗って、ふのりを引く。その上で、伸子張り(しんしばり、と読む)をして布の幅を整える。これを洗い張り、と言う。と、書いているけれど、私はやったことはない。「そういうものであった」ことが言えるだけである。

 

洗い張りは、桃山時代からやっていた、と言われるが、真偽のほどはよくわからない。しかし、着物を着る人は、確実に、これをやっていたのであり、代々続けてきたのであった。私の祖母は、これをやっていた。だから私の母の世代(2018年現在80代くらい)は、自分の親がやっていたので、明確な記憶がある。「絹と木綿は伸子張りの仕方が違ったよね」とか、叔母との会話には普通に出てくるのである。

 

母や伯母たちは、自分の親がやっていたことをよく覚えており、庭に洗い張りした反物が伸子張りして干してあるのを見ている。私にはその記憶はない。そして母や伯母たちで、洗い張りができる人もいない。祖母の代までやっていて、祖母の次の世代には必要がなくなったから、祖母は洗い張りを娘たちに教えなかった。孫の代になると、もう、一体どういうことだったかさえわからなくなっている。

 

かくして私は、着物は着るだけで、手入れはできない、ということになっていて、お金を払って、悉皆屋(しっかいや:染め物や洗い張りを扱う業者)さんに手入れをお願いしている。悉皆屋さんという商売自体が、実はもう成り立たなくなってきているのであるが。

 

ことほどさように、「洗い張り」という技法は、見事に三世代で消えたのである。
いわんや、身体技法においておや。

 

なぜ「馬」は教育されなかったのか。なぜみなが忘れてしまうのか。

 

助産に造詣の深い若い看護師の友人が、キプロスに行ってきた、という。キプロスには男性の助産師がいる、とかで、お産の様子を観察に行かれたらしい。キプロスの病院の状況は、思ったより「ものすごく進んでいた」。

 

妊娠、出産は女性のからだの自然な営みだから、ほんの百年ほど前に近代医療が普及するより前でも、人類は滅亡していなかった。「痛み」と「死」を極限まで避けようとする近代医療体系の恩恵が、どれほど我々を助けてきたか、いまや言うまでもないことではあるが、お産の現場が近代医療以前と比べてどれほど変わったか、についても、また、素人でもわかるくらい知られていると思う。

 

キプロスの帝王切開率は、56.7%、あるいはそれ以上であるという。すべてのお産の6割が、帝王切開という手術によってなされているのだ。この「6割のお産が帝王切開」という事実に、科学的根拠などあるはずがないことは、WHO(世界保健機構)の文書でも繰ればすぐにわかるし、お産の6割を帝王切開しなければ危険なのであれば、人類の滅亡はもっと早かったはずである。

 

若い友人が話を聞いてみると、医師、看護師、助産師たち医療スタッフの側も、誰も「お産を待とうとしない」。すぐ、医療介入をしてしまうので、「お産は待つもの」という意識など、もう、消えてしまっている。先輩たちがみんなそうしていたからである。

 

 

そして産む側、家族の側も、「祖父母世代が自然分娩を知らない」ため、お産は待つものである、という意識が、こちらにもない。キプロス看護助産協会は、さすがにまずいと思っておられるようで、「自然分娩と母乳育児に関する緊急声明」を国として発表して、産み綱(日本の昔の産小屋などにもあった天井の梁からぶら下げた綱で、女性はそれにしがみついて産む)とか、プールとか(陣痛の間、水中にいると痛みが和らぎ落ち着くと言われている)を、産院に導入なさったらしいが、どう使うのかもよくわからない状態で、イギリスあたりの助産師が指導に回っているようだ。三世代経って、知恵として失われてしまうと、取り戻すためにはとんでもない組織的努力が必要になり、それで取り戻せるのかどうかも、私たちには経験がない。

 

20世紀最大の神秘思想家、とも言われたゲオルギイ・グルジェフ。「ワーク」という言葉を初めて使った人でもあり、現代のセラピーの基礎を作ったとも言われるし、エコロジーの発端とも言われ、その活躍の場は広すぎて、途方もなくつかみどころのない巨人である。

 

彼の話は、簡単ではないが、当然、示唆に満ちる。グルジェフは、われわれの内面と外面について、「御者」と「馬」と「荷車」にたとえた話をしている。「馬」が私たちの内面であり、変わることができるのは内面だけである。(「御者」と「荷車」は何であり得るか、ご想像あれ。)しかし私たちの内面を変えるのは難しい。内面を真に、教育するのは難しいのだ。

 

では、なぜ私たちの内面(すなわち「馬」)は、教育されなかったのか、という質問に対し、グルジェフは答える。「おじいさんや、おばあさんが忘れ始め、そのうち身内の者みなが忘れてしまったからだ。教育には時間がかかり、苦悩を伴い、人生の居心地の良さが減少する。始めは怠惰なばかりに馬の教育を怠ったのであるが、のちにはすっかり忘れてしまったのだ」(G.I.グルジェフ著、前田樹子訳「グルジェフ・弟子たちに語る」めるくまーる、1985年)。

 

つまりは、ふた世代前が忘れ始めると、三世代目はすっかり忘れてしまうのだ。祖父母世代が忘れ始めたことを、今なら取り戻せるのか。追っていきたいのはそういうことである気がする。

「少女・女・母・婆」

三砂ちづる(みさご・ちづる)

1958年山口県生まれ。1981年京都薬科大学卒業。薬剤師として働く傍ら、神戸大学経済学部(第二課程)、琉球大学保健学研究科修士課程卒業。1999年ロンドン大学にて疫学のPhD。ロンドン大学衛生熱帯医学院リサーチ・フェロー、JICAの疫学専門家として約15年間、疫学研究を続けながら国際協力活動に携わる。ブラジル北東部セアラ州に約10年在住。2001年より国立公衆衛生院(現・国立保健医療科学院)疫学部に勤務(応用疫学室長)。2004年より津田塾大学国際関係学科教授(多文化国際協力コース担当)。
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