akane
2018/02/06
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2018/02/06
京都に来ればおばんざい。まるで呪文を唱えるかのように、おばんざいを求める旅人は後を絶たない。
京料理と対をなすようにして、おばんざいという言葉が流布しだしたのは、それほど古い話ではない。言葉としての、おばんざいは昔からあったが、一般にその言葉が語られるようになったのは、昭和の終わりころからだったと記憶する。
諸説あるものの、おおむね〈お番菜〉と書くのが一般的なようだ。〈番〉は順番の意と粗末なという意を、〈菜〉はおかずを表している。
京都の古い家は、ハレとケを明確に区別し、そのケに食べるおかずを、おばんざいと呼んだ。或いは、「おぞよ」や「おまわり」。いずれも公家たちの女房言葉から派生したといわれている。
呼び名はどうあれ、普段の粗末な食であることは間違いなく、したがって、お金を払って、お店でおばんざいを食べるなどということは、古くからの京都人には考えられないことなのである。
しかしながら、言葉というものは時代と共に変わるもの。
今や京都のおばんざいを代表する店として名高い「先斗町 ますだ」の三代目にあたる当代主人も、時代に合わせる。
「お客さんがそう言わはるんやったら、あえて否定はしません。おばんざいをアテにして飲んでもろたらええと思います」
「先斗町 ますだ」のカウンターには、いわゆるおばんざいが所狭しと並ぶ。どれもが昔ながらの取り合わせ、味付けだ。
この店の初代女将、増田たかさんの言葉。
「おばんざいより少し濃い味。お酒に合うのはそんな味付けです」
そのとおり、ご飯のおかずとしてのおばんざいより、味にメリハリが利く。古くからのおばんざいの領分を守って、牛肉、豚肉、洋野菜は使わず、地の野菜、若狭からの海の幸をあれこれ取り合わせて、多彩な酒のアテを作る。
海老芋と棒鱈の炊き合わせは〈いもぼう〉と呼ばれ、〈出会いもん〉の代表とされている。
海から遠い京の街では、よそから運ばれてきたものどうしが、偶然京都で出会い、合わさって美味を生み出すことが少なくない。北の海から北前船に載せられてきた棒鱈。九州の南から運ばれてきて、いつしか京都で栽培されるようになった海老芋。このふたつが合わさって〈いもぼう〉。これほどの美味になると誰が予測しただろうか。それが京都マジックというもの。
茄子とにしん、油揚げと水菜、そして春のワカメとタケノコなど。京都の名産と他の地域から運ばれてきた食材を組み合わせて、京ならではの味に仕立てる。
長い歴史の中で不変を保つのは、よほど考え抜かれた取り合わせだったのだろう。今どきの創作料理のような、その場の思い付きとはわけが違う。京都という土地が育んできた味わいそのものを、おばんざいというなら、何も異を唱えることなどしない。
司馬遼太郎がこよなく愛した店、というだけで、おおよその雰囲気は分かろうというもの。お酒は賀茂鶴の樽酒のみ。高歌放吟などもってのほか。「酒はしづかに飲むべかりけり」。京のおひとり晩ごはんには最適の店である。
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