akane
2018/11/28
akane
2018/11/28
ややこしい近現代史も、逆から読めば一気に理解できる!
『日本史は逆から学べ 近現代史集中講義』(光文社知恵の森文庫)の著者で『世界一受けたい授業』(日テレ系)の日本史講義などでもおなじみ、河合敦先生による“逆”からざっくり近現代史講義(全6回)。日本の近現代史を、「なぜ?」「どうしてそうなったのか?」と一問一答形式でさかのぼり、因果関係を分かりやすく解説していきます。
第5回目は、2つの戦争(日清・日露)と自由民権運動についてです!
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Q1)なぜ日露戦争の講和条約に反対する集会が、日比谷焼打ち事件という大暴動に発展したのか?
→それは、国民が全面的に協力した日露戦争なのに、1円も賠償金を獲得できなかったからです。なおこの日比谷焼打ち事件によって民衆は自分たちの政治力に目覚めることになり、研究者の多くは、この事件を大正デモクラシーの始まりとしています。
Q2)なぜ国民は日露戦争に全面的に協力したのか?
→ロシアが日本をはるかに上回る大国であり、この戦争に国家の存亡がかかっていたからです。ロシアは日清戦争後の短期間で満州を占領し、さらに朝鮮半島へと南に影響力を広げていました。その延長線上に、日本列島があったのです。
Q3)なぜ日本政府は大国であるロシアとの日露戦争を決意したのか?
→それは日英同盟を結んだことで、国内世論が急速に主戦論に傾いていったからです。ただ政府内では日英同盟締結後も非戦論が優勢でした。が、朝鮮半島をめぐる日露交渉で着地点が見いだせず、最後は戦争を決意しました。
Q4)なぜ日本はイギリスと同盟を結ぼうとしたのか?
→ロシアが中国分割で満州を占拠し、朝鮮にも大きな影響を持つようになったからです。ロシアの南下政策は清国に既得権益を持つイギリスにとっても、朝鮮半島に影響力を行使したい日本にとっても脅威でした。当時の中国大陸は列強各国の利権争いが激しく、一気に勢力を広げたロシアへの警戒心が日英両国にありました。
Q5)なぜ列強諸国による中国分割が急に進んだのか?
→日本が日清戦争で圧勝し、清朝の弱さが露呈してしまったからです。日清戦争が中国大陸のパワーバランスを大きく変えてしまいました。
Q6)なぜ日本は、日清戦争で清国に圧勝することができたのか?
→それは、近代的兵制や立憲体制が確立され、産業革命を経て経済力もついていたからです。日本では1880年代に産業革命が起こり特に紡績業や製糸業などで飛躍的に力をつけていきました。産業革命で獲得した経済力が、日清戦争を勝利に導いた一因と言えます。
Q7)では、なぜ日本で産業革命がおきたのか?
→それは松方デフレによって民権運動が激化し、農村で階層分化がおこったからです。松方デフレとは、1881年大蔵卿になった薩摩出身の松方正義がとったデフレ政策のことです。これ以前、政府が戊辰戦争や西南戦争で大量の不換紙幣(金銀との交換を保証しない紙幣)を発行したので、紙幣の価値が下がり物価が上昇するいわゆるインフレ状態にありました。このため松方はデフレ政策を取り、市場に流通する紙幣の量を減らし、貨幣の価値を上げました。
松方デフレにより農作物の価格が下落し、農村では多くの農民が没落し農地を手放して小作になりました。一方、彼らから土地を安く買いたたく大地主が生まれました。このように階層分化した農村では、大地主が株式投資を始め起業をし、没落した農家の子女は低賃金労働者として工場などに雇われるようになります。こうした農村の構造変化が、産業革命の素地となりました。
またこの時代は、自由民権運動が盛んになり国民に広がったのですが、松方デフレのしわ寄せから貧困化した農民らがこの運動の急進派と結びつき、武装蜂起する事態が起こります。自由民権運動をリードしていた自由党や立憲改進党は、こうした急進派を制御できなくなり、解党・休止状態を取り、自由民権運動自体が衰退していきました。
Q8)政府はなぜ自由民権運動を強く弾圧するようになったのか?
→政府内からも同調者が出るなど、国民的運動に発展したからです。
Q9)なぜ自由民権運動は起こり、広まっていったのだろうか?
→武力では政府を倒せないことがわかり、不平士族がそれに変わるものを求めたからといえます。江戸の世が明治に変わった時、支配者の地位を追われ権利を奪われた士族は武力での反乱を試みますが、新政府にはかないませんでした。そこで不平士族たちは、農民を巻き込んだ自由民権運動に身を転じていくのです。
次回、最終回「なぜ新政府への士族の乱が続発したのか?」に続きます!
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