akane
2019/07/04
akane
2019/07/04
サラリーマンばかりではありません。
先ほど、学生野球こそ野球、と書いたように、日本では野球と言えば、高校野球であり大学野球でした。学校と野球は密接に結びついていました。教育と野球は一体でした。
元巨人の桑田真澄がしばしば指摘するように、日本の野球界に今もなお影響を及ぼしている、飛田穂洲(1886−1965)という人物がいます。
「一球入魂」という言葉の生みの親とされていて、精神野球の父、ともいわれています。
また、野球道を広めた人物とも。野球はスポーツというよりも、柔道や剣道、茶道のように「道」であり、作法があり、心の鍛錬により、上達して究められる対象として、野球を位置づけました。
だから、高校野球部員は、みな丸刈りですし、先輩の命令は絶対です。
もちろん、監督は神様です。
パワハラという言葉のない時代、さらには、科学的な指導という感覚もない時代、水を飲まずウサギ跳びを繰り返すのが、高校野球の練習でした。
その理由は、すべて野球と教育が一致していたからです。
野球はスポーツです。相手チームよりも1点でも多く取れば勝ちです。そのために練習して、試合に臨みます。それだけのことです。
そこには、人生に似た要素もあるかもしれませんが、あくまでも、スポーツです。
けれども、日本の野球は違います。特に学生野球は違います。
教育の一環として、体だけではなく、心を鍛えるメリットが強調されます。体力をつけるだけではなく、強い心を育み、礼儀作法も身につく、というわけです。
だから、学校の部活動として野球は重用されましたし、今もされています。
さらには、強い絆で結ばれる先輩後輩関係は、大学進学ばかりか、就職や、その後の仕事にも結びつきます。
繰り返しになりますが、野球はスポーツです。
スポーツの語源は、気晴らしであって、それ以上でも以下でもありません。
体を鍛える、といった役に立つ側面は、あまりありませんし、教育のひとつ、という観点もむろんありません。
にもかかわらず、日本では、今にいたるまでずっと、野球をはじめとしたスポーツが学校教育に取り入れられてきました。
教育的指導のひとつとして体罰が容認されてきたばかりか、指導者や親によっては、暴力ではなく「しつけ」としてもてはやす傾向すらありました。
ここ数年、高校野球ばかりではなく、さまざまな学生スポーツでも暴力が問題になっています。
ただ、高校野球に限って言えば、これまでも暴力は問題視されてきました。
いや、より細かく言えば、些細な暴力を針小棒大にあげつらって、全体に目を向けさせないようにしてきたのです。
たとえば、レギュラーでもなく、さらには、既に退部してしまったり、あるいは、ほとんど練習にも出てこなかったりする部員による暴力や喫煙、飲酒、といった問題行動により、甲子園の予選などを出場辞退するケースは、昔からありました。
なぜでしょうか。
それは、いわばスケープゴート(生け贄)として、小さい問題を大きく騒ぎ立てて、そこに世間の非難を集めるためです。
高校野球に取り組む高校生だって、普通の高校生です。普通の10代の若者です。時には、ヤンチャもします。意気がって悪さもします。それは、驚くべきことではありません。だからこそ、教育を受けているのです。
ですが、野球道の考え方に基づけば、そうした外れ値は、許されません。あってはなりません。高校野球は、精神を鍛えているのですから、聖人君子でなければなりません。
問題行動を起こすような部員は、いないのです。存在してはならないのです。
すると、問題児は高校野球部員ではありません。問題児はいません。
いるとすれば、野球道を踏み外してしまったダメな子どもです。
よって、必要以上に、そうした脱落者を血祭りにあげなければなりません。些細なミスや、わざわざ非難するほどでもない行動ほど、逆に、批判しなければなりません。
そこで、退部した生徒や、レギュラーでない生徒といった、いわば「非正規」の野球部員による問題行動がクローズアップされるのです。
こうして、野球は、あくまでも教育の一環というタテマエを守ったまま、巨額の契約金や裏ガネ、さらには、「不純異性交遊」の側面には目をつぶり続けます。
かたや、サラリーマンや働く人の影絵として、他方では、清廉潔白な青年を育てるツールとして、野球は、戦後日本人の心を支える重要な存在になりあがりました。
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