gimahiromi
2019/07/17
gimahiromi
2019/07/17
終身雇用は日本の伝統?
終身雇用・年功序列に対する根強い礼賛が日本にはあります。そういった主張をなさる方の多くは、概ね「終身雇用は日本文化に根付いた伝統的な美徳である」という趣旨の主張をしますが、これはありがちな勘違いで、事実と異なります。
まず「終身雇用」という言葉は、ボストン・コンサルティング・グループの初代東京事務所代表だったジェームス・C・アベグレンが、1958年に出版した著書『日本の経営』の中で初めて用いたもので、いわば「新語」です。アベグレンは、終身雇用の他に、日本企業の特徴として「企業内組合」「年功序列」という二つの特徴を指摘しています。
要するに、歴史的な視点に立てば、ごく最近、しかもアメリカ人によって作られた言葉であって、「日本古来のもの」などでは全くありません。
言葉としては新しいかも知れないけど、古くから根付いていた慣習なのでは? と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、それも間違いで、終身雇用が日本企業に根付いたのは戦後のことです。
例えば大正時代の政府統計を見ると、勤続年数が10年以上となっているホワイトカラーは数パーセント程度で、ほとんどの人が数年で職場を変わる状況だったことが分かります。
ではなぜ、それまで根付かなかった終身雇用が、急激に戦後の日本企業でスタンダードになったのか? これにはいくつかの要因が複合的に作用しているようです。
一つは国家政策です。
首都が焦土になり、経済も人心も崩壊した日本を立て直すには、これはこれで戦時体制的な挙国一致の活動が必要になります。
政府がリーダーシップをとり、戦略的に育成する産業を決めて、そこに労働力をつぎ込み、できるだけ早く育成することが望まれるわけですが、その際に労働コストの上昇が問題になります。労働市場を活性化させて労働コストが上昇すると、日本の産業の国際的な競争力を阻害することになります。
もちろん、労働市場の活性化・労働コストの上昇は、労働者本人にとっては「より自分に合った仕事、より高い給料」が得られるので望ましいことなのですが、国家全体の観点から考えれば、「個人個人が自分に合った仕事を見つけて、高い給料をもらう」よりも、「個人個人の適性とは関係なく、政府が決めた重点産業に大量の人員が投下され、長期間ロックインして習熟度を高める」ことが求められるわけです。
つまり、日本政府は、労働市場を活性化させて重要産業内の企業が国際的な競争力を失うよりも、労働コストを低く抑え続けることで、コスト競争力を高めようとしたんですね。
まさに戦時中と同じコトを考えたわけです。これが結果的に、終身雇用・年功序列という戦中期から続いていた傾向を、より強固に定着化させることに寄与しました。
加えて外国資本による買収を恐れた株式の持ち合い制度も、年功序列や終身雇用といった習慣の定着化に一役買ったことを指摘しなければなりません。
株主の持ち合いが進むことで、経営のガバナンスは、株主主権から従業員主権へと軸足をシフトします。その結果として、企業内の昇進を通じた経営者の選別というスタイルが浸透し、年功序列・終身雇用という制度をより強化する流れが強まっていったのです。
まとめて言えば、終身雇用という制度は、太平洋戦争の忘れ形見とも言うべきもので、日本古来の伝統とは全く関係がありません。
終身雇用や年功序列を礼賛する理由として次によく聞かれるのが、これらの制度が日本の文化的な側面と適合している、という主張です。単純化すれば「日本は儒教の国だから年功序列がいい」と言っているわけです。
儒教は仁・義・礼・智・信の五常によって父子・君臣・夫婦・長幼・朋友という五倫関係をよりよく保つことを説く一種の道徳律です。
確かに、終身雇用や年功序列は、この五倫のうち「君臣」あるいは「長幼」関係の維持という点と適合している、という面はあるのかも知れません。
しかし、だからといって雇用の流動性を高められないというのも、ちょっと極端な話だと私は思います。もしそうであれば、儒教的側面がより強く社会に浸透している中国や台湾の雇用流動性が、日本より高いという事実を合理的に説明できません。
さらに、中国の就職人気ランキングで、年功序列制度を採用している日本企業は、「年功序列でなかなか管理職になれない」という理由で常に低位に甘んじていることも、儒教が浸透している社会において、必ずしも年功序列・終身雇用が選好されるわけではないということを示唆しています。
これらの理由から、儒教的価値観が浸透している日本では年功序列がいいのだという通俗的な主張は、間違っていると言えます。
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