gimahiromi
2019/07/01
gimahiromi
2019/07/01
恋愛は、愛する楽しみと愛される楽しみのバランスが大切、と言っておきながら、見返りを求めてはいけないだなんて、理不尽な! と思う人もいるかもしれません。
「たしかにワクワクするかもしれないけれど、それだけでは大損しちゃうかもしれないのですよ。それでいいのですか?」
という声が聞こえてきそうです。
今、私たちの社会では、「あなたは損をしてはいけない」という教育が、いたるところで繰り返し行われています。
損をするのは間違った頭の悪い方法であり、小さな得を積み重ねていくことが、成功していくことなのだということを、学校でも家庭でも、アニメやお笑い芸人のバラエティ番組の中でも、刷り込まれているのです。
もともとのこの傾向に加えて、ここ数年はさらに、日本の会社はこれまでの日本型経営からアメリカ型の株主重視経営への移行がすすみ、長期的な利益が考えにくくなりました。
会社は、ブランドイメージや創業精神を守ることよりも、目先の利益をあげることが優先になっていますし、働いている人は、終身雇用でないのだから会社の先行きを守るより今年の自分の年収や、今クビにならないかどうかを心配しています。
まさに即物的で、近視眼的な物質主義。極論すれば、できるだけ自分はコストを払わずに、最大限の成果を得たいと思っている、ちょっと見には賢そうでいて、実はケチくさい発想が社会全体を覆っているわけです。
そこで、今は社会全体がものすごく短絡的だし、大らかさがない。
今日一日で5000円儲かるのがいいか、2000円儲かるのがいいかといったら、オートマチックに5000円のほうに行くという発想がほとんどです。
あるいは「今日は1円も稼いでいないけど、一日中ぼうっと青空を見ていた」という一日があったとしたら、「時間を無駄にした」と、損をしているように思ってしまうのです。
そんな最近の風潮だけでなく、また経済とか社会構造といった外的な問題だけでなく、もっと根本的に私たちの中に潜んでいる何かが、愛の不毛感をもたらしているのも事実です。
たとえば、多くの人は気づいていないかもしれませんが、「モノを欲しがる」というのは現象的なことであって、本当の問題は、おそらくその向こう側にある欠乏感です。
よくあるたとえで、コップに半分ぐらいの水が入っているとき、「もう半分しかない」と捉えるか「まだ半分ある」と捉えるかという話があります。まだ半分あると思えば、次の一口もおいしく味わうことができるでしょう。
しかしもう半分しかないと思えば、飲む楽しみなどよりもなくなったあとの不安のほうが強くなり、「そこに水がある」ことが自分に及ぼす意味はまったく変わってきます。
この不安こそが物質主義の正体です。
たとえば、今、私が砂漠の中をひとりですすむ旅人だったとしたら、水筒に半分ある水をどう考えることができるでしょう。
「全部飲みきったらなくなってしまう。そうしたら自分にはもう何もない。この水をなくしたら生きていけない」
こんな不安にとらわれてしまうので、水のおいしさを味わうどころではありません。旅の途中に誰かに出会って水をくれないかと頼まれても、もちろん断ります。
「こんなに水が足りないのだから、他人にあげるなんてありえない。この人ではなくもっと水を持っていて私に捧げてくれる人に出会わなければ!」
と、水を持っている人かどうかで、相手を見定めたくなります。
重要なのは「なくなるのが怖い」という不安は、持っている水の量によるわけではないということです。
たとえ水が満タンに入った給水車に乗って旅をしているとしても、欠乏感にとらわれ続けていれば、水の在庫を増やすことばかりが気になってしまうのです。
仏教では「小欲知足」と言います。
これは「そんなに欲しがってばかりいないで、足るところを知りなさい」ということで、「欲を持つな」というのではないし、楽しむことをまったく否定するものでもありません。
今、そこにあるもので満たされるというのは、そんなに難しいことではないはずなのですが、小欲知足にはなかなかなれません。
その原因は、贅沢がしたいからというよりも、この不安感・欠乏感にあるのです。
欠乏感にかられて損をしないように計算する愛は、楽しくないですね。
愛の幸せを実感するには、ひとつにはコストを計算しないバカになれるかどうかが重要になるということを、知っておいてもいいはずです。
愛は物質ではなく、エネルギーの流れです。
貯めこもうとすればその流れは消えてしまうので、受け取りながら与えていくという「流れ」の中に身をおいていくことしかない。
これが仏教における「諸行無常」です。
「諸行無常」とは、「私、あなた、動物や草花など生きているもの、私たちの住む世界のすべてはとどまることなく、生まれてやがて消えていく。すべてが常に変わっていくのであって、変わらないものは何ひとつない」という仏教の基本的な真理のひとつです。
これを虚無的に解釈すると「どうせ変わっていくのだから、しょせん愛など儚いものだ」と、むなしさを感じてしまいます。
愛は、テーブルの上のコップやボールペンのように、手で触わって確かめることのできる物質として存在するものではありません。
しかし、もしとても大切な人にばったり出会って、その人が笑いかけてくれたとしたら、愛の流れた瞬間を私は強烈に実感することができるはずです。
愛の純度が高まれば高まるほど、瞬間的に感じるエネルギーの流れでしかありえなくなります。
俗に言う「恋に落ちる」という瞬間はこれで、そのときに聞いた言葉や声、その人の行動の向こう側に、何かものすごい情熱を垣間見て戦慄してしまう、その胸を突かれるような一瞬が「愛」なのです。
コップやボールペンは私の世界に影響を及ぼしませんが、その一瞬に放出された愛は、私の世界の色を塗り替えることもできます。
そしてどれだけ強烈なインパクトがあるものでも、次の瞬間にはそれはもう記憶でしかなく、もう愛はそこにはありません。録画ビデオのように再生することもできないのです。
逆に、その人から一度でも純度の高いものすごい愛が放出された一瞬を見てしまったがゆえに、その後にたいして熱のない行動を取られると、ひどく失望してしまうこともあるかもしれません。
「あのときのあなたの一言は、いったい何だったのか」
と、検証したくなる気持ちはわかります。
それでも、帳簿をひっくり返して見直すように、過去の愛をチェックしたり、モノのように握りしめつかまえようとするならば、するりと逃げてしまうでしょう。
愛を確かめようとすればするほど、人は欲求不満になるようになっているのです。
諸行無常とわかっていても、切ないのが愛するということです。
昨日はうまく会話がすすんだけれど、今日は何だかそっけないということもあります。あるいは、いつも待ち続けて、何度も期待を裏切られても、やっぱり求めてしまうというような状況もあると思います。
人間は、わかっていても求めてしまうものです。
恋愛を楽しむということは、その諸行無常の切なさを楽しむということです。
その切なさの中にこそ、私たちの実存──私がここにいるという証があるのです。
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