akane
2019/07/18
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2019/07/18
この時代の医学や精神医学には、世界中どこでも似たような性格がある。
だが第三帝国の診断体制は、死と隣り合わせだった。治療の一環として、死という選択肢が含まれていたのだ。
民族共同体に適さないとの診断が増えるにつれ、そのような人々は「生きるに値しない命」として殺害されるようになった。
これは安楽死と呼ばれたが、その表現は正しくない。このプログラムで殺害された人間のほとんどが、肉体的には健康だった。末期症状だったわけでもなければ、肉体的な苦痛を訴えていたわけでもない。
彼らは障害者と見なされた。
行動面や社会面で問題を抱えた多くの子どもたちがその標的となった。
その一例が、アスペルガーやほかの同業者たちがウィーンのシュピーゲルグルント児童養護施設に送った子どもたちである。ナチスの精神医学では、子どもには、共同体への適性を示す順応性、「教育を受ける能力」、「働く能力」がなければならない。
家族や階級も、診断の重要な要素となる。未婚の親から生まれた子ども、父親がいない子ども、家のほかの子どもとうまくやっていけないと母親から思われている子どもは、殺される可能性が高くなる。
要するに児童安楽死プログラムは、優生学の基準に社会性を組み込み、社会への帰属を医学的に促す取り組みだった。
児童殺害は、第三帝国最初の大量殺人システムだった。
これを機に、「遺伝的に障害を持つ」人間の不妊手術などの民族衛生対策が、大量殺戮へと移行していくことになる。
ただし児童の安楽死は、法律に定められた、第三帝国の医療を永続的に特徴づけるプログラムという位置づけだった。これは、後に現れるナチスのほかの根絶プログラムとは異なる。
たとえば、大人の安楽死は、T4プログラム(ベルリンのティーアガルテン通り四番地に本部があったため、そう呼ばれていた)として1941年まで行われ、その後も非公式に続けられていたが、児童の場合よりもはるかに無差別的で、20万人以上が犠牲になった。
対照的に、児童の安楽死の場合には、それぞれのケースについて長期間の観察と慎重な検討が求められた。プログラムの規模も小さく、殺害されたのは5000人から1万人とされる。
そのうちの789人がシュピーゲルグルントの子どもたちで、第三帝国の児童殺害施設の中では2番目に多い。
児童安楽死プログラムには、ほかの根絶プログラムよりも親密な側面がある。
医師が直接、安楽死の対象となる子どもを診察した。看護師が直接、殺される子どもの食事の世話をし、シーツを取り替えた。
彼らはみな、子どもたちの名前や声、顔、性格をよく知っていた。安楽死の処置は一般的に、その子どものベッドで行われた。死は苦痛を伴って、ゆっくりと訪れた。
食事を与えないで放置されるか、バルビツール酸塩を過剰に投与され、そのために体調を崩し、たいていは肺炎を患って死んでいった。
ナチスの根絶プログラムについては、ナチスの暴虐と被害者の苦痛がよく別々に語られるが、児童安楽死プログラムでは、両者は並列の出来事ではなく、互いに絡み合っている。
それが、このプログラムの展開や発展に影響を及ぼすことになった。
ところで、犯罪国家では一般市民が共犯かどうかを、どこで線引きすればいいのだろう?
誰もが意識するしないにかかわらず、大なり小なり組織的な虐殺に加担していた。アスペルガーは、体制の熱心な支持者でもなければ反対者でもなかったが、そんな共犯に陥った。
当時は大衆の大多数がとまどいながらも、ナチスのルールに従い、同調し、不安に思いながらも、それが正常だと受け入れ、問題を過小評価し、自分を抑え、あきらめていた。
そんな矛盾した状況を考えると、それぞれの状況においてそれぞれの理由で行動する個人の行為が何百万と蓄積した結果、あの怪物のような体制が生まれたことに、なおさら驚かされる。
ナチス政権下で殺人にかかわった人とそうでない人を区別するのは難しい。第三帝国に37あった児童安楽死施設における共犯者は、医療の専門家だけではない。
スタッフ、保守員、料理人、清掃員が、その施設を維持していた。会計士、保険業者、薬品製造業者、市の職員がその管理を手伝っていた。トラック運転手、鉄道員、地元の業者、食品店が、その運営を支えていた。
これらの人には家族や隣人がおり、この国で行われていることについて一緒に話をする機会もあったに違いない。
施設に隔離された子どもを持つ親も、安楽死プログラムについて知っていたのだろう。安楽死病棟からわが子を救い出す親もいれば、わが子を安楽死病棟に送る親もいた。
児童や大人の安楽死は第三帝国内で行われていたため、一般市民も多くはそれを知っていた。日常生活の中で、安楽死施設の火葬場から出る人間の焼けるにおいをかいでいたかもしれない。
何十万という人が、不審な状況下で友人や愛する人が死んだことを知らされた。健康な人が施設に入って数週間のうちに自然死したと言われるのだ。
安楽死が大衆に広く知れわたるようになると、一般市民から激しい抗議が起きた。
ミュンスター司教フォン・ガーレン率いる抗議行動を受け、ヒトラーは1941年8月、大人の安楽死を進めるT4プログラムを公式には打ち切った。
これは、ナチス時代に第三帝国市民が幅広く抗議した唯一の大量殺人プログラムとなった。
それを考えると、抗議自体は勇気ある行動だとしても、素直には喜べない。結局のところ市民は、第三帝国の国民の殺害には抗議したが、民族共同体に含まれない人々の殺戮には抗議しなかった。
T4プログラムが公式には抗議を受けて中止されたことを考慮すると、ほかのナチスのプログラムについても、大衆の抗議がある程度の影響を及ぼす可能性はあったはずだ。
だがいずれにせよ、障害があるとされる大人の殺害は、その後もあちこちで秘密裏に行われ、さらに何十万人もの命が奪われた。
第三帝国では、ほかの形式の組織的殺人も広まった。
望ましくない人々を隔離するナチスの収容所は、ドイツに支配されたヨーロッパの至るところにあった。その数は、合計4万2000以上に及ぶ。
980の強制収容所、1150のユダヤ人隔離地区、強制的に連行された女性たちによる500の売春宿、1000の戦争捕虜収容所、3万の労働収容所などのほか、未確認の拘置所や移送所が何千とあった。
少し計算をしてみると、その規模に圧倒される。
これら4万2000の収容所の運営や維持に、それぞれ100人ずつが携わっていたとすると(ありえないほど少ない見積もりだが)、その総数は400万人を超えることになる。
アスペルガーは、第三帝国のほかの市民同様、その場その場で即興的に判断や選択を行った。そのため、民族共同体に参加できそうな子どもは断固として守ることもできたが、そうでない子どもはシュピーゲルグルントに送らざるを得なかった。
こうした支援と迫害を結びつけて考えれば、一見すると相矛盾する一般市民の行動や思いが理解しやすくなる。
それは、ナチス政権下では診断が、個人の運命を左右する力を持っていたからにほかならない。
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