agarieakiko
2019/03/05
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2019/03/05
1980年代は、今思い返せば、アメリカに追いつき追い越せでやって来た日本の製造業のビジネス・モデルが完成を迎えた時代だった。
80年の年間平均為替レートは226円。この円安ドル高の恩恵を受けて、日本の自動車メーカー、家電メーカー、半導体メーカーが、アメリカ市場に対する輸出を急拡大し始めた。
当時のアメリカは、79年の第二次オイルショックの影響のため、インフレ率は13・5%に上っていた。その一方で、アメリカ政府は積極的な財政政策をとったことから財政赤字が拡大して行き、10年物アメリカ国債の金利は10%を超える状況となっていた。
為替レートは73年から変動相場制へ移行しており、78年ごろには日本の貿易黒字、アメリカの財政赤字の拡大から、1ドル180円まで円高が進んだが、アメリカの金利の高騰のため、80年には1ドル220~230円の円安水準となっていた。
つまり、日本の自動車メーカー、家電メーカー、半導体メーカーの製品の価格競争力が高く、その結果として怒濤のように輸出が拡大していき、60年代後半の繊維製品、70年代後半の鉄鋼製品に次いで、自動車、家電製品、半導体製品をめぐって、日米貿易摩擦がエスカレートすることになった。80年には全米自動車労働組合(UAW)が日本車の輸出自主規制を求め、83年には米国半導体協会が当時世界の市場を席捲していた日本の半導体メーカーへの批判を始めている。
80年代の貿易摩擦は、自動車、テレビ、VTRの家電製品等、一般消費者に目立つものが多かったことから、ジャパン・バッシングの動きはアメリカ社会に広がり、82年には日本人と間違われた中国系アメリカ人が自動車産業の中心地デトロイトで白人によって殺害されるという痛ましい事故も起きてしまった。
貿易摩擦の中で、日本研究も盛んになり、79年には、ハーバード大学のエズラ・ボーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を出版した。日本の高い経済成長の原因は、通商産業省(現・経済産業省)や大蔵省(現・財務省)の優秀な官僚による経済への関与、学習意欲の高さ、読書習慣、数学力の高さ等が相まって形づくられているという内容で、最終章で日本から学ぶべきものを明らかにしていた。日本でも翻訳版が出版され70万部を記録し、日本人は、日本が世界一の経済大国になったという幻想を抱いたのである。
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以上、『日米ビジネス30年史』(植田統著)を抜粋・一部改変して掲載しました。
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