akane
2019/10/18
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2019/10/18
将棋界のレジェンド・加藤一二三九段のエッセイ『一二三の玉手箱』(光文社知恵の森文庫)より、心に響く言葉の数々をご紹介します。
シンプルで深い“ひふみん”の言葉には、人生を愉しむヒントが満載!
今回は、62年10カ月にわたる現役生活の中で棋士として行き詰まりを感じていた時期のエピソードから、ご自身のプロフェッショナルとしての「仕事観」について、明かしています。
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私は行き詰まりを経験している。
かつて私は、どういう気持ちで将棋の一手を決めたらよいのか決めきれず、10年ほど満足のいく将棋が指せなかった。
昭和45年の初めには自分自身の行き詰まりを悟り、キリスト教の洗礼を受ければそれを突破できると考えた。
そして洗礼を受け行き詰まりを突破した。洗礼を受けた後、いい将棋をして沢山勝った。
私は将棋の名人で、モーツァルトやバッハと同じ様に、すばらしい名局を、100年、200年たってもいいとされる将棋を指してきた。
天才の曲は200年たっても色あせることはない。
これは一方で神が望んでいらっしゃることだと考えている。
どんな分野でもプロフェッショナルであれと神はおっしゃっている。
立派な仕事をして世の光となれ、といっている。
それは作曲家だったらいい曲を作ることであり、将棋の棋士だったら良い将棋を指すことだ。自分も満足するし、人々も満足する。
プロフェッショナルの仕事は世の人にいい影響を与える。
どの仕事でも神の目に適う仕事をできると思っている。
私は1986年にローマ法王から「聖シルベストロ騎士勲章」を賜った。
その時の受賞の理由が、「加藤九段は、将棋のチャンピオンとして授与する」というものだった。
例えば私が「福祉に励んでいる」ということではなく、「将棋のチャンピオン」ということで賜ったのが要だ。
棋士としてプロフェッショナルとして働き、それが神の意に沿っているとされたのだ。
モーツァルトやバッハがそうであったように、私も才能をいただいているのだから、ひたすら将棋を指すことに尽きる。
私はそうあるべきだと思う。
※この記事は『一二三の玉手箱』(加藤一二三・著)より、一部を抜粋・要約して作成しています。
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