BW_machida
2022/01/27
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2022/01/27
2014年9月、第二次改造内閣を発足した安倍元首相は、記者会見の席でローカル・アベノミクスとも言われる「地方創生」を発表した。
地方創生?
物・人・金と、長く東京に一極集中し続けた結果、すっかり斜陽化してしまった地方に活力を取り戻す……と言う掛け声なのだが、そんなたわ言で何かが変わることは無い。
しかし、そんな折に、海の向こうから「黒船」よろしく大変革を余儀なくする新型コロナウイルスが到来した。勢い世論は、「リモート・ワーク」や「在宅勤務」を推奨し、それ以前から高まっていたスローライフなどと相まって、地方移住の機運が高まった。しかし、気運こそ高まったものの、実際は思ったほどの動きは無いように感じる。それならそれで良かった。と、四国出身の私は思う。なぜなら、都会で暮らす人が思うほど、「田舎暮らし」は素敵ではないからだ。
『田舎はいやらしい 地方活性化は本当に必要か?』(光文社新書)の著者は、宅建取引士や1級ファイナンシャルプランニング技能士など多様な資格を有し、自身も戯曲やシナリオを書くなど多才な花房尚作氏。著者自身の、埼玉県川口市のマンモス校から、鹿児島県の全校生徒50人ほどの小学校に転校し、その後も福岡~アメリカ(ボストン)~東京~過疎地という移住体験をもとに記された、過疎の抱える問題点を浮き彫りにした一冊だ。
私たちはついつい日本人は同じ行動様式で暮らしていると思いがちである。それがじつは違っていた。過疎地域には過疎地域の行動様式があり、都心には都心の行動様式があった。
(中略)
都心で暮らしている者が持つ過疎地域に対する誤った認識。過疎地域で暮らしている者が持つ保守性と閉鎖性に依存するという、行動様式の中の幸せ。この二つの橋渡しとしての役割を果たし、現行の過疎地域対策とは違う選択肢を提示したかった。
本書の冒頭で語られる、著者の本作に対する思いである。
都会から田舎へと移転した著者とは逆の形でだが、同じく田舎暮らしの「良さ」と「悪さ」を十二分に経験している私にもこれはその通りだと思えた。方言が持つ独特のイントネーションとニュアンス。仕事に対するスピード感。祭りや行事に現れる風俗・風習。「勝ち・負け」の概念。などなど、事々に都会と田舎(過疎地)では異なる。
それらをひとくくりにして、永田町や霞が関の論理で対策するなど、無理というより無茶というものだ。
一口に地方といっても、県庁所在地のように交通の便が整っている地域もあれば、陸の孤島になっている地域もある。過疎地域の中にも都市に近い場所に位置する過疎地域もあれば、都市から遠く離れている過疎地域もある。都市から遠く離れている過疎地域の中にも山村や漁村、離島もあり、それぞれ置かれている状況が違う。それらをすべてまとめて「地域の活性化は正しい」と論じてしまって本当によいのだろうか。過疎地域の活性化は本当によいことで、過疎地域が衰えるのは本当に悪いことなのだろうか。
高校進学を控えたある日の夕方。夕日に紅く染まった教室で、クラスメートの何人かと、将来の夢を語り合った。青春の1ページを彩る一コマである。そしていち早く都会を目指した私は、帰省する都度、あの日語らった仲間に上京を強く勧めた。私に勧められたからではないだろうが、出てきた者もいれば出ず仕舞いで終わった者もいる。そして、出てきた者も、私を除く全員が今は郷里で過ごしている。それぞれの事情があり、選択肢がある。様々なわけを知る間柄だからこそ勧めた上京のつもりなのだが、彼には彼の、いかんともし難い事情というか思い・性分があったのだ。
本書には、著者が行った様々なインタビューが紹介されている。そんな中から、鹿児島県曾於(そお)市役所企画課の職員にしたものを一つ。
Q 「曽於市は寂れていく一方ですね」
A 「そうなりますね」
Q 「いずれ曽於市は立ち行かなくなりますよね」
A 「そうですね」
Q 「何か対策のようなものはありますか」
A 「う~ん、ないですね」
Q 「たしかにやりようがねいですよね」
A 「そうですね」
Q 「私も曽於市に住んでいるので分かります」
「インタビューになっていない」とのご指摘があるかもしれないが、過疎地域の人々が持つ雰囲気はよく表れている。(中略)
なぜなら過疎地域がいくら廃れても、職員の収入は中央政府が保証しており、現状維持で何ら問題がないのである。問題意識そのものがなく、むしろ問題にされることが問題意識として認識される。
たしかにこのインタビューは、過疎地域の行政との不毛なやり取りをよく表している。私が40代半ばで帰省した際にも、同じような感覚を味わった。それは、県下でも有名な高齢者ばかりが暮らす過疎地域の活性化に対するディスカッションとプレゼンテーションに招かれた時のこと。担当課長以下数名の課員と地元商工会や青年会の面々と、私たちプレゼンサイドの12名ほどが、およそ2時間に及ぶ会議を3度繰り返した。今思っても悪くないプランをプレゼンし、彼らも相当食いついていたように記憶している。市内から1時間半ほどの山間の町まで出向いた私には、「お車代」と称する謝礼が振り込まれた。しかし、待てど暮らせど何らの返答もいただけない。業を煮やして、同行した地元代理店に問い合わせてみると、「あれはもう終わってると思いますよ」とすげない返事をいただいた。
後日、同じく地元市役所に勤める友人に聞いてみると、
「ディスカッションしたという事実だけが欲しかったんだよ」
と教えられた。要は、自分たちでは思いもつかなかった新規事業を始めるよりも、役所として「地域活性化」に取り組んでいるという事実だけが必要なのだ。そして、この三度に渡る会議の議事録は、彼ら役所の活動履歴として上申して完了するのだ。
冷徹な市場原理の中で生きてきた都会生活者にとって、これほどのギャップは想像の域を超えていた。本書の中には、同じく意識レベルのギャップに慄く著者の姿がいたるところに浮き上がってくる。
本当の意味での活性化は、そこで暮らしている人びとが楽しむことで生まれる。小さな楽しみの積み重ねが生き生きとした生活につながる。そこに意識の高さや競争といったものは不要なのではないだろうか。
私も都心で暮らしていた頃は、過疎地域の活性化は正論だと考えていた。過疎地域の発展は地域の人びとの幸せにつながると信じていた。活気のある町がよい町であり、寂れた町はよくない町だと思い込んでいた。なぜなら、過疎地域の人びとは、都市で暮らす人びととは全く違う価値観の中で暮らしていたからだ。そこには変わらないことを望む人びとの姿があった。何一つ変わることなく、どこにも飛び立たず、廃れ、寂れ、衰えていくことを望む人びとの姿があった。(中略)
中央政府は、過疎地域の活性化を止めて、過疎地域のゆるやかな後退を目指してはどうだろうか。そのような選択肢があってもよいのではないだろうか。
「地方創生」「地域活性化」などなど、いい加減、その手の謳い国民を惑わすのは止めて欲しい。
『田舎はいやらしい 地域活性化は本当に必要か?』(光文社新書)は、常日頃、永田町に憤りを感じ、ましてや著者と同じく、田舎のいやらしい部分をよく知る者も唸らせる鋭い考察が記されている。是非とも、過疎化を懸念する地域に住まう方々に読んでいただきたい一冊だ。
文/森健次
『田舎はいやらしい』
花房尚作/著
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