ryomiyagi
2020/01/11
ryomiyagi
2020/01/11
私は拙い坊主です。
数年前、ある人の紹介で、清原和博さんと出会うご縁を頂きました。
あのとき、拙僧の前には、たくさんの子どもたちに「大きくなったら清原選手のようなホームランバッターになりたい」と夢を与えていたスーバースターはいませんでした。
そこには、たった一つの過ちから、かつての輝きをすっかり失くしてしまい、ただただ、もがき苦しむ一人の男性がいたのです。
いろいろなお話をさせていただくなかで、清原さん本人から、二度と過ちを繰り返したくない、この過ちから多くのことを学びたいという強い意志を、私は感じとることができました。
人生とは、十人いれば十通りの物語があり、一つとして同じものはありません。
そして、人生には無駄なもの、不必要なものなど、何一つありません。
成功も失敗も、善も悪も、すべてがその人の人生を構成するために、不可欠なものです。
失敗はその後の成功のために、悪は正しく善を学ぶために、どちらも必要な経験なのだと思います。
仏教の世界では「人はもともと罪障を抱えながら生きている」と考えられています。
幾たびと輪廻を繰り返す、果てしなく長い魂の旅路において、人は誰しも生まれながらにして、前世で犯した罪を背負っています。また、命を食らいながら今生を送ること、そのこと自体も罪と捉えるからです。
法律に抵触したことはしていないからといって「自分には罪はない、自分は悪いことを一切していない」とは言えないのです。
罪障消滅のため、その罪に少しでも勝る徳を積んでいく、その修行を続けていくことが、私たちがこの世に生を受けたことの、大切な目的の1つなのです。
清原さんは、覚醒剤という日本の法律上、違法な薬物に手を出して逮捕され、犯罪者となりました。しかし、仏様の法に照らしてみれば、私たちはみな、等しく罪深い存在なのです。
そして、自らがその罪を深く悔い改めたのならば、再びスタートする事ができる世の中でなければならないと、私は思います。
人は人としての最後が来るその時まで懸命に前を向いて生きていかなければならないのです。
ですから、清原さんには、もう一度あのころの輝きを取り戻していただきたい、もう一度たくさんの人たちに夢を与えていただきたい、そして、自分と同じように苦しんでいる人がいたのなら、その人たちの痛みを理解し、支えてあげられる人になっていただきたい−−、私は切にそう願っています。
それが、清原和博さんに与えられた道であり、これからの生き方であると私は思います。
人生には何一つ、無駄なものも不必要なものも、ないのですから。
合掌 鈴木泰堂
『魂問答』
清原和博・ 鈴木泰堂 /著
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