ショパン・コンクールが生んだ「怪物」マルタ・アルゲリッチ。彼女をヨーロッパへ導いた「運命の人」とは
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令和2年を迎えた今年、2020年。日本中が東京オリンピックで沸き立つなか、ワルシャワではピアノ界の大イベント・5年に一度の「ショパン・コンクール」が開催されます。日本人にとってのピアノスターであるマルタ・アルゲリッチと マウリツィオ・ポリーニという2人の物語を通して、20世紀後半~現在までの日本と世界のクラシック音楽史を辿ります。

 

本稿は、本間ひろむ『アルゲリッチとポリーニ』(光文社新書)の一部を再編集したものです。


■7歳でデビュー。天才少女・アルゲリッチ

 

マルタ・アルゲリッチ。1941年6月5日、ブエノスアイレス生まれ。

 

3歳でピアノを始め、5歳で“ピアノ界の人食い鬼”の異名をとるヴィンチェンツォ・スカラムッツァ(1885年、クロトーネ生まれ)というイタリア人に師事した。当時、ブエノスアイレスでピアニストになりたい者の最も賢明なチョイスだった。

 

スカラムッツァは13歳以上の生徒しか見なかったが、アルゲリッチとブルーノ=レオナルド・ゲルバー(1941年、ブエノスアイレス生まれ)だけは例外だった。アルゲリッチ、ゲルバーともに5歳で彼のクラスに入った。

 

スカラムッツァはとても厳しいやり方で必要なテクニックを彼らに叩き込んだ。やり方自体は厳しいが教えるメソッドは適切なものだった。アルゲリッチもゲルバーも、ひとつ年下のダニエル・バレンボイム(1942年、ブエノスアイレス生まれ)も、これはという門下生はヴィルトゥオーゾ(超一流の演奏家・名人)として大成している。

 

スカラムッツァは時に「マルタは問題なく弾けてるよ」とゲルバーに言い、アルゲリッチには「ブルーノは君の20キロも先をいってるよ」と言ってお互いのライバル心を煽った。

 

だが、彼らはライバルというよりも姉弟のようだった。ゲルバーの父親がテアトロ・コロンのヴァイオリン奏者だったおかげで2人はオーケストラ・ピットに忍び込んで、奏者の誰かが音を外すと2人でクスクスと笑い合った。ヨーロッパで演奏活動をするようになってからも、アルゲリッチとゲルバーはお互いの演奏会に顔を出していた。

 

7歳になったアルゲリッチは、サン・マルティン劇場でモーツァルト《ピアノ協奏曲第20番》とベートーヴェン《ピアノ協奏曲第1番》を演奏した。

 

初の公開演奏である(ゲルバーは7歳で小児麻痺にかかったため、デビュー演奏会は9歳だった。2人とも早熟の天才ピアニストである)。そして、マルタ・アルゲリッチは11歳でテアトロ・コロンでデビューを飾った(シューマンのピアノ協奏曲)。

 

■“過剰”を抱えた母の力

 

10歳にもならない少女が次々と大舞台を踏めたのもマルタ・アルゲリッチにはファニータという強烈なステージママがいたからだ。ファニータは反ユダヤ政策の帝政ロシアから逃れてきたユダヤ人一家の娘である。

 

そうユダヤ人。

 

ひとつだけ例をあげると、数年前、東京の春音楽祭で若きユダヤ人ピアニストのボリス・ギルトブルグ(1984年、モスクワ生まれ)のラフマニノフ(プレリュード全曲)を聴いた。それがまるで、50メートル先から全速力で走ってきてそのまま体当たりをしてくるようなピアノだったのだ。

 

ユダヤ人は過剰を抱えている。若き日のアルゲリッチもそんなふうに体当たりをしてきたが、ファニータの抱えているものもえらく熱量の高いものだった。

 

さて、過剰を抱えたステージママのファニータは大学で出会った敵対する政治グループのボス同士であるフアン・マヌエル・アルゲリッチ(ファニータは社会主義、フアン・マヌエルは右翼)と熱い議論を交わした末に結婚。

 

マルタとその弟カシケが生まれた。やがてマルタに音楽的才能があることを見てとると、あらゆる手段を講じて“ピアニスト”マルタ・アルゲリッチをプッシュしようと腐心した。

 

ブエノスアイレスには有名な音楽家が代わる代わる訪れた。

 

アルトゥール・ルービンシュタイン(1887年、ウッチ生まれ)、ワルター・ギーゼキング(1895年、リヨン生まれ)、アルフレッド・コルトー(1877年、ニヨン生まれ)、ピアニストだけではなく、ダヴィッド・オイストラフ(1908年、オデッサ生まれ)、ジノ・フランチェスカッティ(1902年、マルセイユ生まれ)、ヨゼフ・シゲティ(1892年、ブダペスト生まれ)といったヴァイオリニストが演奏会を開き、ある者はマスタークラスを行ったりした。

 

ファニータは、彼らが来ると楽屋やホテルに押しかけ小さな天才少女のピアノを聴かせようとしたのだ(このバイタリティこそがユダヤ人の属性である)。

 

そして、ファニータがスカラムッツァと衝突してマルタがこの老教師のレッスンを受けられなくなってほどなく、運命のピアニストがブエノスアイレスを訪れる。

 

■ヨーロッパへの道

 

フリードリヒ・グルダ(1930年、ウィーン生まれ)である。

 

そう、Viennese Troika(“ウィーン三羽烏”の訳でお馴染み)のひとり、フリードリヒ・グルダである(あとの2人はイェルク・デムス、パウル・バドゥラ=スコダ)。

 

アルゲリッチはグルダのピアノに魅せられた。

 

まだ20代前半だったグルダはそれまでの大時代的なピアノ演奏とは一線を画す、清廉なピアノを弾いていた。そこにあるのはアコーギグ(テンポを揺らせる技巧)ではなく淡々と未来へと導くリズム。駆使するデュナーミク(音の強弱で表現する技巧)。

 

まだ十代だったマルタ・アルゲリッチは、自分の中にあるピアニズムと彼の持つ音楽性に共通の芽を発見していたのだ。

 

ファニータは我慢強く楽屋口でグルダを待ち続けた。果たして、グルダはアルゲリッチのピアノを聴くことになった。それまで弟子を取ることのなかった彼が、ヨーロッパに来るなら君の面倒を見る、という約束をした。

 

娘がヨーロッパでグルダの弟子になる、というプランにはさほど積極的ではなかったファニータだったが、熱病に冒されたような娘の様子を見て、フアン・ペロン大統領に掛け合った。

 

アルゲリッチ親子と面談をした左翼系の大統領は、マルタの話を聞いて相反するイデオロギーを持つ父親フアン・マヌエルをウィーンの大使館へ外交官として、母親ファニータを大使館職員としてウィーン赴任を命じた(マルタを留学させるために!)。

 

これでマルタ・アルゲリッチはウィーンに赴き、グルダの弟子になった。1955年のことである(同じ時期、クラウディオ・アバドもグルダのレッスンを受けていたが、こちらは才能なしの烙印を押され指揮者に転向して大きな成功を収めるのだから面白い)。

 

ここでやっと、マルタ・アルゲリッチはマウリツィオ・ポリーニと同じヨーロッパの大地に立ったことになる。

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