銅像から知る「ヘンリー・デニソン」 幣原喜重郎に影響を与えた、謙虚で努力家な人格者
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ryomiyagi

2020/10/21

外務省研修所の玄関を入ると、ホールの手前左に一つ、奥正面にもう一つ、銅像が安置されている。一人は日本人、もう一人は米国人。彼らは、近代日本外交を語る上で、欠かすことのできない貢献をなした人物である。今回はそのうちの一人、ヘンリー・ウィラード・デニソンについて、彼がなぜ銅像となって今も外務省の地に讃えられているのか、その由来をご紹介します。

 

本稿は、片山和之『歴史秘話 外務省研修所 〜知られざる歩みと実態〜』(光文社新書)の一部を再編集したものです

 

外務省研修所内にあるヘンリー・デニソンの銅像

 

へンリー・デニソン ─ 日本外交の発展を陰で支える

 

奥正面に安置されるのは、外務省法律顧問のヘンリー・ウィラード・デニソン(Henry Willard Denison)である。1846年、ヴァーモント州ギルドホールに生まれた彼は、横浜にあった米国総領事館勤務を経て、デロング米国公使の紹介で1880年に外務省の法律顧問に就任する。

 

その後、1914年に東京で68歳の生涯を終えるまで、34年の長きにわたって日清・日露両戦役を始め、日英同盟締結、不平等条約改正と近代日本外交の発展を陰で支えた。

 

明治時代、官庁や学校にはお雇い外国人として多くの技術者や教育者が日本政府から高給を得ながら働いていた。明治維新からの約30年間で約2300名の外国人を日本政府は雇用した。外務省にも語学の教師や翻訳者が雇われていた。

 

ちなみに、『外務省の百年』には30名の外務省お雇い外国人が列挙されている。その中で、特別高い地位で雇用されていた外国人が外務省法律顧問であった。デニソンの当時の給与は大臣クラスに相当していたという。住宅は外務省構内の官舎が用意されていた。後に外交官領事官試験合格者として初の外務大臣になる幣原喜重郎が電信課長であった時代には自宅が隣同士であったらしい。

 

デニソンが外務省で勤務を始めた頃は、日本が不平等条約改正に向けて準備を始めていた時であった。デニソンは、外務省法律顧問に就任する前に横浜で米国領事代理を務め、その後、在留外国人のための弁護士業を営んでおり、この面の事情には通じていた。

 

彼は、欧米各国の法律を調査し、条約や外交文書の草案を作成し、各国外交官とも打ち合わせをし、外務省の手足となって働いた。条約改正は1894年に英国を手始めとして各国との交渉が妥結し、1899年には領事裁判権が廃止された。

 

日清戦争および下関講和会議においてもデニソンはその準備を周到に行い、誠実な働きぶりを示した。1902年に日英同盟が結ばれると、日本は、ロシアとの関係で大きな選択を迫られる。そして、彼はロシアとの事前交渉、日露戦争、そしてポーツマス講和会議でも大活躍する。

 

謙虚な人格者

 

青山霊園にあるデニソンの墓

 

幣原喜重郎は、その著書『外交五十年』の第二部「回想の人物・時代」という項目の中で、特に「デニソンを憶う」という文章を書いている。

 

それによれば、デニソンは、外務省きっての英語使いであった幣原に対し、自分は文章を1ページ書くのに少なくとも3、4度は辞書を引く、それだけの注意が必要であり、筆に任せて書くというのは良くないことだと話した。それを聞いた幣原は、英語を母国語とする彼にして辞書を手元から離さないのであれば、自分は、さらに努力をする必要があると、机上にいつもウエブスターの辞書を置いて絶えず引くよう心がけたということである。

 

ちなみに、後輩の吉田茂によれば、入省後ロンドン勤務になった幣原は、毎朝ロンドン・タイムズの社説を日本語に翻訳し、次にはそれを自分で英語に再翻訳して原文と対照しながら研究するほどに英語の勉強に熱心であった由であり、この話は当時外務省内でも有名だったらしい。

 

デニソンは歴代外務大臣から絶大な信任を得ていた。彼が小村寿太郎外務大臣の指示に基づき日露戦争前に在露日本公使館宛に起案した公電は、開戦後に公になると、それを読んだ欧米各国政府の日本の立場に対する理解と同情を集め、英国に至っては、外務省入省者に文章の手本として読ませるくらいに含蓄のある文章であったという。それは、デニソンが何度も何度も推敲し書き直した苦心の作であった。

 

他方で、彼は謙虚な人格者であり、決して自分の働きを誇ろうとするところがなかったという。ある日、デニソンが休暇を取って米国に一時帰国するため、身辺整理をしていた際に、事務室の机の引き出しから彼が日露交渉の際に草案した件の書類の束が出てきた。

 

これを見た幣原は、第1稿から最終案ができるまでの文章作成過程が一目で分かる非常に貴重かつ参考になる資料と考え、デニソンに読ませてくれるよう所望した。しかしながら、彼はこれを君にやると後世、デニソンは黒幕として日露交渉に主要な役割を果たしたという風評が起こる可能性がある、この交渉はまったく小村大臣によるものであり、自分はその功に参加する権利は少しもないと語るや否や、目の前にあるストーブの火中に書類を投げ込んでしまったという。

 

人間の性として、功は自ら取り、失敗は他に転嫁しがちであるが、デニソンの高潔な人格は凡人の企及し得ないところがあったと幣原は述懐している。幣原は、デニソンの遺言に基づき彼が残した数千部の蔵書を引き継いだが、これは残念なことに関東大震災および第2次大戦の戦災ですべて灰燼に帰した。

 

1914年6月20日、デニソンは脳出血で倒れ、築地の聖路加病院に入院する。7月3日、彼に勲一等旭日桐花大綬章が贈られたまさにその日、68歳の生涯を閉じた。7月7日に挙行された外務省による葬儀には、陸軍から一個大隊の儀仗兵が派遣されたという。

 

彼は今、青山霊園の小村寿太郎の墓の近くに眠っている。1969年編纂の『外務省の百年』(原書房)には、デニソンの項目が特に設けられ、「今でも毎年、命日がくると、青山霊園にあるかれの墓所に、外務省から人が出向いてお詣りしています」という文章で締めくくられている。

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