akane
2019/07/25
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2019/07/25
昭和五十九年三月、征爾の長女、セイラちゃんが、小学校を卒業した。
六年前、彼女が入学するとき、アメリカの小学校に入れるか日本の小学校に入れるか、征爾とヴェラは大いに悩んだらしいが、結局日本の、しかも征爾の母校成城の初等科に入れることにした。やはり日本人としてむかしからの習慣とか礼儀を身につけさせたいという気持からだと思う。
しかし、僕や征爾が通ってたころとちがって、成城も入学がなかなか難しいというので、征爾はとても心を痛めていたようだ。
合格発表の日、そのころ征爾が常宿にしていた永田町のヒルトン・ホテルの征爾の部屋に、たまたま用があって夕方行ったところ、征爾が夕暮のうす暗い部屋に、電灯もつけずにポツンと立っていた。
「セイラちゃん、入ったんだって?よかったね」
と、僕が声をかけると、征爾は、
「ウン、よかった」
と、いつになく弱々しい声でつぶやいたので、オヤッと思って暗がりの中で征爾の顔をチラッと見たら、目に涙をいっぱいためていた。僕がくるまで、電気もつけずに一人合格の喜びにひたっていたらしい。
僕はそのとき吹き出しそうになったが、僕の息子が、成城の中学に合格したときは、やっぱり僕もうれしくて、不覚にも涙をこぼしたから、征爾のことは笑えない。おまけに息子の入ったクラスが、昔の僕と同じ「桃組」だと聞いて、感慨無量だった。
そのセイラちゃんが、卒業するというので、征爾は三月十五日の卒業式に出席するために、わざわざボストンから帰ってきてしまった。
そして、卒業式のあとに、体育館で開かれた謝恩会で、征爾は父兄代表としてスピーチをした。
「ベルリン・フィル・デビュー以来の晴れ姿だよ」
と言って、前もって原稿まで書いていったのに、いざしゃべりはじめたら、涙が流れて原稿もまともに読めなかったらしい。
「僕はもう父兄という立場よりも、今まで君たちと一緒に遠足に行ったり、しょっちゅう学校に遊びに来たりして、生徒のみんなとは、仲間みたいになっています。
僕は、中学から成城に入ったんだけど、成城の初等科から上がってきた仲間が、『成城の初等科は楽しかった。初等科へ遊びに行こう』と言って、僕を初等科の校舎につれてってくれました。そして、初等科の先生に『こいつは中学から入ってきた新しい仲間で、いい奴なんだ』と、僕を紹介してくれました。僕は、そのときとてもうれしかった。成城には、そういうあたたかい雰囲気があるんです。
君たちは今日卒業して中学に上がるけど、卒業式の歌に『丘をたがいにへだつとも心はひとつ』とあるように、同じ成城の丘の向こうがわに行くだけなんだから、初等科で出会った先生がたを忘れないで、何かあったらいつでも来て、何でも相談するといい。先生がたも、生徒たちが訪ねてきたらあたたかく迎えてやってください…………」
まるで征爾自身の卒業みたいに、途中からポロポロ涙を流しながらも、一生懸命生徒たちに語りかけていた。
とにかく征爾の生徒たちに対する愛情は、たいへんなもので、
「僕は決して泣き虫じゃないよ」
と言いながら、このごろは歳のせいか、人目もはばからずによく涙を流す。
征爾は、二人の子供のお友達と一緒に、大ぜいで遊んでいるときが、いちばんうれしそうで、はたで見ていても、子供たちに対する征爾のあたたかい気持と優しさが伝わってくる。征爾はきっと、音楽をやるときも、あんな気持でやってるんだろうなと思う。
いつだったか、上野の東京文化会館でコンサートがあったとき、何かの用事で途中の休憩時間に征爾の楽屋をのぞいたところ、セイラちゃんや彼女の同級生が五、六人、征爾の部屋でマンガを読んだり、ゲームをしたりしてにぎやかに遊んでいた。
客席で演奏を聞いているお母さんたちを、その子たちは楽屋で遊んで待っているのだった。
征爾は、その大ぜいの子供たちに囲まれて、ほんとにうれしそうにニコニコしながら、汗でぬれたステージ衣裳を着換え、騒がしい子供たちが全然気にならないようすで、休憩後に指揮する曲のスコアを、いつものように超スピードでめくっていた。
この記事は『やわらかな兄 征爾』(小澤幹雄・著)より、一部を抜粋・要約して作成しています。
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