akane
2019/07/09
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2019/07/09
征爾が第一期生として指揮の勉強をした「桐朋」は、正確に言うと桐朋女子高等学校音楽科である。
ふつうの女子高に付属してあとから音楽科が併設されたので、征爾たちは男のくせに女子高卒なのだ。今でこそ、桐朋学園といえば、海外にもその名がとどろき、外国からの留学生も珍しくないが、創立当時はごく一部の人にしか知られていない存在だった。
征爾は成城学園中学校の三年生のころ、指揮をやりたいと言いだして、おふくろさんの親戚に当たる斎藤秀雄先生を麹町まちのお宅に一人で訪ねて行った。
「ボクは先生の親戚の者ですが、指揮を勉強したいんです」
と、初対面の先生に相談したところ、斎藤先生は、
「われわれが来年桐朋学園という音楽学校を新しく作るから、それまで待ってそこに入りなさい」
とアドバイスされたのだ。
そこで征爾は、成城学園高校に一年だけ通い、その間ピアノや聴音の個人レッスンを受けて、昭和二十七年春、出来たての桐朋女子高校音楽科(指揮科)に一期生として入学した。
男子生徒はわずか四人で、指揮科の生徒は征爾一人だった。
そのころの征爾は、とにかく道を歩きながらも、口でメロディーをうなり、両手を振って指揮の練習をしていた。だから家の中にいても、征爾が帰ってくるのが
遠くからわかって、おふくろさんが、
「あ、征爾帰ってきた」
と言ってると、間もなく玄関の戸が勢いよく開けられた。
ところが、元気よく玄関に飛び込んでくる日ばかりではなかった。
斎藤先生の指揮のレッスンはものすごくきびしく、一緒にレッスンを受けていた山本直純さんと二人で先生にどなられて、先生の家の窓から裸足で逃げてきたこともあったらしい。
あとから奥様の秀子おばさんが二人の靴を持って追いかけてきてくれたそうだ。指揮棒でたたかれたり、分厚いスコア(オーケストラの総譜)を投げつけられたりするのは日常茶飯事だったようで、ページがバラバラにとれてしまったスコアを、征爾はあわててかき集めて家まで持ち帰ってきては、バラバラのページをまたセロテープで順番にくっつけていた。その作業を、よく僕も一緒に手伝ってあげたものだ。
斎藤先生におこられた日は、さすがに征爾も元気なく、ぐったり疲れきった顔で帰ってきて、玄関に入るなり靴もぬがずにそのままゴロンと寝ころんでしまったこともあった。
とにかくそのころは、桐朋学園の学生オーケストラも出来たばかりで人手がなく、征爾ひとりでみんなの譜面台や椅子の手配から、パート譜の印刷まで一切をやっていたのだ。だからわが家にも楽譜印刷の会社の堀田さんという人がしょっちゅう来て、征爾と玄関先であわただしく打ち合せをしていた。
オーケストラの雑用でヘトヘトになり、自分の指揮の勉強がじゅうぶん出来ないまま、先生の家にレッスンに行くと、不勉強だといってどなりつけられるという具合で、半ば絶望的になった征爾が、ある日半べそかいて家に帰ってきて、一言も口をきかずにいきなり本箱のガラスをこぶしでなぐりつけ、ガラスをメチャメチャに割ってしまったことがあった。
僕はびっくりして、ガラスの破片がいっぱいささって血だらけになっている征爾の右手のこぶしに、赤チンをぬって包帯を巻いてやった。その間じゅう、僕は何も聞かなかったし、征爾も黙って手を出していた。
(そんなにつらいなら、音楽の勉強なんてやめちゃえばいいのに)
と、包帯を巻きながら僕は思ったけれども、口には出さなかった。
この記事は『やわらかな兄 征爾』(小澤幹雄・著)より、一部を抜粋・要約して作成しています。
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