ryomiyagi
2021/04/10
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2021/04/10
『沙林 偽りの王国』
新潮社
’89年11月坂本堤弁護士一家殺害事件、’94年5月滝本太郎弁護士サリン襲撃事件、’94
年6月27日松本サリン事件、’94年12月濱口忠仁さんVX殺人事件、’95年2月28日目黒公証役場事務長假谷清志さん拉致監禁致死事件、'95年3月20日地下鉄サリン事件……。
オウム真理教が起こした卑劣な凶悪犯罪はわかっているだけでも亡くなった方が29名、負傷者は6千名を超えます。’18年7月に首謀者・麻原彰晃をはじめ13名の死刑が執行され、刑事事件としては一区切りついたかに見えるオウム真理教の犯罪を、現役の精神科医の帚木蓬生さんは膨大な資料と知識をもとに長編小説『沙林 偽りの王国』として編み上げました。
’94年6月。九州大学医学部教授の沢井は7名の死者と200名近い患者を出した松本市の事件が、有機リン系化学兵器・サリンによるものだと気づきます。しかし、長野県警は第一通報者の会社員を疑い、マスコミもその論調で報道。個人の力でサリンは作れないと知っている沢井は、とてつもないことが起こっているのではないかと危機感を募らせますが……。
「松本サリン事件が起こったとき、農薬を混ぜただけではあれほどの事件にはならないと思いましたが、長野県警は最初から第一通報者を疑うというおかしな動きをしました。何かがおかしいと思い、それでいつかこのことを書こうと考えて資料を集め始めました」
帚木さんは執筆のきっかけについてそう即答します。
「毎日、病院で診療にあたっていますから取材はしていませんし、裁判も一切見ていません。すべて集めた資料や裁判の傍聴記録などをもとにしています。ただ、どれだけ傍聴記録を読んでも、個々の事件について語られるだけで全体像が見えてこない。入手できた資料は膨大にありましたが、いずれもオウム真理教が起こした一つの大きな犯罪を相対的に見る目が欠けていた。それで全体像を記録しておく必要があると考えたんです」
物語は薬物中毒の研究者の沢井の目を通して進みます。医師でもある沢井は科学者と倫理について思考し続けます。その過程で、第一次世界大戦では後にノーベル賞を受賞するような科学者たちが毒ガス生産に携わったこと、第二次世界大戦では中国で人体実験を繰り返した日本軍・731部隊の関係者が戦犯として罰せられることなく、戦後、京都大学や東京大学などの教授に収まり華々しい人生を歩んだことなどが紹介されます。
「ドイツ人がナチスの犯罪を執拗に追及したのと異なり、日本人は戦争の記憶が遠ざかるに従い731部隊の実態も忘れていった。オウム真理教の悪行はそうなってはいけない。人類の記憶に刻印されるべき重大な事件です。また、なぜ高学歴の連中が簡単に洗脳され殺人兵器を作製したのかは解明されていません。科学者が倫理を失えば、科学を盲信する原理主義になっていくんです。それから偽の王国はオウム真理教だけではない。警察は不手際だらけ、マスコミも偏った報道だらけでひどかった。そういったことを誰も書かないのであれば、小説家が書かないといけないと思いました。
大事なことは胡散臭さを感じる知性を持つことです。胡散臭さは常識の上に立った判断ですから」
紙碑のつもりで書いたと語る帚木さん。後世まで読み継がれるべき、胸を射抜く大作です。
PROFILE
ははきぎ・ほうせい◎’47年、福岡県生まれ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。2年で退職し、九州大学医学部に学ぶ。現役精神科医。’93年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、’95年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、’97年『逃亡』で柴田錬三郎賞、’10年『水神』で新田次郎文学賞、’11年『ソルハ』で小学館児童出版文化賞、’12年『蠅の帝国』『蛍の航跡』の二部作で日本医療小説大賞、’13年『日御子』で歴史時代作家クラブ賞作品賞、’18年『守教』で吉川英治文学賞と中山義秀文学賞をそれぞれ受賞。
聞き手/品川裕香
しながわ・ゆか◎フリー編集者・教育ジャーナリスト。’03年より『女性自身』の書評欄担当。著書は「若い人に贈る読書のすすめ2014」(読書推進運動協議会)の一冊に選ばれた『「働く」ために必要なこと』(筑摩書房)ほか多数。
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