「幸せ」と「きれい」について|ジェーン・スーさん新刊『きれいになりたい気がしてきた』
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ryomiyagi

2022/02/24


『きれいになりたい気がしてきた』 光文社
ジェーン・スー/著

 

ジェーン・スーさんの新刊『きれいになりたい気がしてきた』(2022年2月24日発売/光文社刊)より、抜粋エッセイをお届けします。

 

幸せは、冷たい川の中で、砂金を探すように見つけるものではないと思うのですよ。とめどなく流れる冷水に足を浸し、腰をかがめて川底にザルを沈め、何度も何度もキンキンに冷えた水で、泥土をすすぐ。

 

何時間もそうやっていると、百回に一回くらい、小さな小さな金の粒がキラッと光る。それが幸せだとしたら、あまりにも不幸です。幸せは、自分のまわりに、自分のなかに、もっと普通にあっていいものではないでしょうか。

 

川から出る力は、誰にでもあります。準備と勇気と覚悟が少し必要だけれど、不可能ではありません。不幸になる自由も、同じように誰にでもあります。しかし、不幸が「たまの幸せを味わうための装置」になってたら、それは本末転倒だわよ。

 

うっかり不幸になることはあって、それはその人の責任でもなんでもありません。人生で、自分がコントロールできることなんて一割もないでしょう。他者とかかわりがある限り、どうしたって思い通りにはいかないものだし、自分ひとりで生きていたとしても、常に自分が思い通りになったことなど、少なくとも私にはありません。

 

誰だって、無闇に傷つくのはごめんです。自尊感情がガリガリと削られるもの。そんな事態を避けるためには、すべてに対して期待値をうんと低く設定するか、不当な扱いに怒り続けていくか、常に幸せを希求し「ここではないどこか」へ旅立つか。

 

どれかひとつに絞ってしまうと、やはり不幸が忍び寄ってくる。不幸は煙みたいなもので、小さな穴や隙間から音もなくスルリと侵入してきます。だから、期待値をやんわり下げつつ、捨て置けない不当な扱いにはちゃんと怒り、座組が悪いと思ったらお暇する、の三つを自分用にハイブリッドする。このバランスがうまく保てれば、自尊感情はゆるやかに上昇していきます。

 

わかっていても失敗することはあって、そうしたときに頼りになるのが、自分に手を掛けてあげることだと思います。自分の好きな自分にはいろいろな構成要素があるけれど、精神の入れ物としての肉体が自分好みだと、とりあえずその場はしのげる。鏡を見て「うん、悪くない」と思えれば、自分が自分であることを、心底嫌悪するような状況に陥ることはありません。

 

精神がおおよそ整っていないと自分に手を掛けてあげることも難しいので、鶏が先か卵が先かの話ではあります。二十四時間を仕事とプライベートと睡眠だけに振り分けていればよかった若かりしころとは異なり、家族のケアや自分自身のメンテナンスにリソースを割かなければいけないのが中年時代。ただでさえ時間がない上にやらなきゃいけないことは無限にあり、やりたいことなんてもう全然わからなくなっちゃって、嗚呼なんのために生きているのかと、鏡に映るしょぼくれた自分に肩を落とす。

 

なんのために生きているかはわからないけれど、命ある限りは自分を不幸なところに置き続けない。それだけが、自分に課された責務だと、私は思います。

 

いますぐ「ここではないどこか」へ移動することができないなら、誰かの手に委ねて自分の肉体を慈しんでもらう。それだけでも効果があると、マッサージやリラクゼーションサロンを渡り歩いて知ったのは三十代後半でした。

 

私は美容家ではありません。美容マニアのように、新しいものを次から次へと試す好奇心もありません。むしろ、自分を自分好みに美しくすることへの照れや遠慮や罪悪感や、よくわからない後ろ向きな気持ちにずーっと引っ張られてきました。容姿に自信がなく、それ以外で自分を構成しようと躍起になっていました。

 

いい歳になってわかったのは、やっぱり私はきれいになりたいって思ってるってこと。お仕着せのきれいではなく、自分で自分を好きでいられるような、自分のためのきれいを求めているってこと。自分のためとはいえ、他者から「きれい」と言われたら心底嬉しいこと。これは「きれい」と言われ続けてきた人にはちょっとわからない感覚かもしれませんが、そうではない人間にとっては切実なのです。自分が「きれいになりたい。そう思われたい」と思っていることを認めるのは、非常に負荷が高い。

 

だって、自分のことをきれいだとは思っていないんだもの。きれいではない人が「きれいになりたい」なんてお門違いもいいところだし、身の丈を知らない欲深いことのよう。そんな欲望を持っているなんて、誰にも知られたくありません。

 

だがしかし。我々は非常に幸運でした。きれいのバリエーションが、ここにきて突然増えたから。針の穴ほどしかなかったきれいの許容範囲が、とんでもなく広がったから。改めて新バージョンのきれいを眺めてみると、確かにあれもこれもきれいです。少し前まで、私はなぜこれらをきれいだとは思えなかったのか、不思議な気持ちになるほどに。新バージョンのきれいをまとう人たちはみな、とても幸せそうな様子です。
そりゃ人には言えない悩みもあるでしょう。でも、いまの自分に満足している印象を与えてくれる。自分に手を掛けて慈しんでいることが伝わってもきます。

 

きれいの範囲が広がって、自尊感情が健やかに育ち、新しいきれいな人たちはますますきれいになっていく。うらやましいな。

 

平成が終わるころまでは「薄幸の美女」というフレーズが横行しておりました。いまの空気には、あまりそぐわない気がします。私は自分の欲望を真正面から素直に受け止め、それに応え、失敗しながら好きな自分を掘り出していきたい。幸せときれいを、くっつけていきたい。

 

やはり、幸せは冷たい川の中で、砂金を探すように見つけるものではない。自分自身を金塊にするつもりも胆力もないけれど、私は外側に砂金を求めるのではなく、自分の内側にきれいを見つけて幸せになりたいのだよ。

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