2019/04/17
坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長
『ふたつの日本「移民国家」の建前と現実』講談社
望月優大/著
いわゆる「社会問題」と呼ばれている現象には、問題の理解や解決を妨げる「壁」がある。
一つ目は、「見えない」という壁。貧困やDV、ひきこもりや難病で悩んでいる人はどの地域にも存在するが、なかなかその存在は目に見えない。
二つ目は、「語れない」という壁。性的少数者や薬物依存症者のように、存在自体がタブー視されていたり、そもそもの定義が曖昧であったり、適切に語るためのボキャブラリー(語彙)やリテラシー(読解・記述力)が存在していないために、問題の内容や当事者の苦しみを言葉で表現すること自体ができない。
三つめは、「語らない」という壁。社会問題の当事者は、「非正規」「無資格」「有期」「不法滞在」といった法律的・社会的に不安定かつ不透明なポジションに置かれ、正当な権利や発言の機会自体が与えられていないことが多い。結果的に当事者は語ることができないし、仮に語ったとしても誰も耳を傾けてくれない。
本書『ふたつの日本』がテーマにしている「移民」=在留外国人を巡る問題は、こうした「壁」に何重にも取り囲まれた社会問題である。
少子高齢化と人口減少が進む中で、私たちの社会や経済は、もはや外国人労働者なしでは成り立たない状況になっている。それにもかかわらず、政府は「移民」の存在自体を認めていない。在留外国人が300万人に迫ろうとしてもなお、「移民政策」を否認し続け、選別的な受け入れと排除を繰り返している。
建前と現実の乖離した状態が延々と続いている中で、私たちの社会や経済を支えている外国人労働者は、支援や包摂の対象ではなく取り締まりや排除の対象として、社会不安を鎮めるためのスケープゴートとしてやり玉にあげられがちである。
著者は、マイノリティをテーマにした新書にありがちな煽情的な現場ルポをあえて排して、「移民国家」の建前と現実を冷静かつストイックな筆致で描き出し、在留外国人を巡る問題の見取り図を提示することに徹している。その試みは成功しているといえるだろう。
本書の最後で、在留外国人を巡る問題について、著者は「これは『彼ら』の問題ではない。これは『私たち』の問題である」と述べている。社会課題を「他人事」から「自分事」、そして「社会事」にしていこう、というメッセージは、自己責任論に対するカウンターとして、近年あちこちで訴えられるようになった。私自身も、性風俗で働く女性の問題をテーマにした新書『「身体を売る彼女たち」の事情 自立と依存の性風俗』(ちくま新書)で、「『彼女たち』の事情は、『私たち』の事情に他ならない」と同じことを述べているので、著者の主張には全面的に同意できる。
しかし、特定の社会問題を「私たちの問題」として捉えようとする際には、四つ目の壁が立ちはだかることになる。
それは「見たくない」という壁だ。
社会問題を「他人事」から「自分事」、そして「社会事」にしていくということは、その問題の一部、当事者の痛みや苦しみを自らが引き受けることに他ならない。SNSのタイムライン上で「許さない!」と怒りの声を発するだけではなく、社会を変えるための具体的かつ現実的な処方箋を提示することが求められる。
人を動かすため、制度を変えるための活動の中で、場合によっては、かつて自らが批判していたはずの「ポピュリスト」と同じような言説・手段を使わざるを得ないこともある。その過程で、かつて敵だと思っていた対象が敵ではなくなったり、守るべき存在と思っていた当事者の二面性が明らかになることもある。
つまり、「見たくない」ものが次々に出てくるわけだ。特定の社会問題を「自分事」として考えるということは、その社会問題を簡単に「消費」できなくなる=安全圏から誰かや何かを叩いて気持ちよくなる、という振る舞いができなくなる、ということだ。
「自分事」として捉えることで、現実の解像度は上昇する。それによってもたらされる目の眩むような複雑性の嵐の中で、社会問題の当事者と同じように、恒常的な不安定性の中に置かれ続けることになる。果たして、私たちはどこまでそれに耐えられるのだろうか。
本書によって、在留外国人を巡る問題の見取り図を手に入れることができた私たちに突き付けられるのは、こうした「ポスト自分事」の世界=社会問題を自分事として捉えることを決意した後の世界で降りかかってくる様々な困難や課題をどうクリアしていくべきか、という問いだ。
次回作では、この問いに対する著者の回答が読めることを期待したい。
『ふたつの日本「移民国家」の建前と現実』講談社
望月優大/著