2019/06/17
一ノ瀬翔太 編集者
『太陽・惑星』新潮社
上田岳弘/著
*本レビューは作品の核心に触れておりますので、ご留意ください。
第160回芥川賞を上田岳弘が受賞した。先日、久しぶりに父親に会ったら、「この本読んだか?」と言ってカバンから取り出したのが受賞作の『ニムロッド』だったから、受賞効果はあるようだ。
僕にとっての上田岳弘の現時点での最高傑作は、デビュー作の「太陽」だ。学生時代に読んでこんな小説があるのかと衝撃を受け、遅ればせながら純文学やSFに手を伸ばすきっかけになった。
本作には、「一人称神視点」とでも言うべき特異な語りが採用されている。
語り手である「私」は、核融合加速装置を用いた「大錬金」により太陽系全体が一つの巨大な金塊と化した後の時点に存在している。
「大錬金」の年代ははっきりと示されていないが、それを実行した田山ミシェルは、本作の現代パートに登場する赤ちゃん工場経営者ドンゴ・ディオンムの「9代目の子孫」にあたり、「人類の第二形態」に属している。第二形態において、人類は不老不死を実現し、容姿や知能指数などの「基礎パラメータ」を任意の値に設定することができる。
なお、「第二形態」という呼称は、上述のドンゴ・ディオンムが著書「凝固する世界」で用いたものだ。同書にはたとえば以下の記述がある。「第一形態において忌避された偶然性、有限性、不公平、恣意、その他あらゆる偏りは、第二形態において完全に排除されるだろうが、第三形態においてようやく本来の意味を取り戻す」。
語り手の「私」は、ドンゴ・ディオンムが分類するところの「人類の第三形態」なのかもしれない。その可能性が、「私」自身によって示唆されている。「あるいは未だこんな風に語り続ける私こそが、人類の第三形態そのものと言えるのかどうか」。
「私」はかつて、現代パートに登場するトマス・フランクリンという学者だった。トマス・フランクリンは1億人以上のフォロワーを持つ人々からツイッターアカウントを譲り受け、やがて「人生の中で関わってきた人間のほとんど全員が、インターネット上に彼が広げた壮大な網のどこかに引っかかり、実質的な彼のフォロワーになっていった」。トマス・フランクリンにアカウントを譲った人物のひとり、常人の1万倍以上鋭い嗅覚に根ざした独特のツイートで絶大な人気を集めるケーシャブ・ズビン・カリは、「しかしそんな風にしていると、君はいつかわけのわからないものになってしまうよ」と忠告している。
この時代、人間はツイートするために手や声を使って文字を入力する必要はなくなり、脳波から拾われた文字が自動的に刻まれるようになっている。ケーシャブ・ズビン・カリは、「不思議なことに自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなる時がある」「自分は既に波のような存在になっていて、彼らの意識の上にたゆたっているだけなのではないか」と述べる。人類が太陽の灼熱に焼き尽くされた後にも物語を語り続ける「波のような」「わけのわからないもの」と化したトマス・フランクリンの思念、それが「私」である、と読める。
「私」=語り手の存在は、終盤まで伏せられている。時空を縦横無尽に行き来する全知の語りが展開される地の文を三人称の文章として読み進めていたところに、突然「私」が現れるから、ミステリーで言う叙述トリックにも近い驚きが味わえる。
ちなみに、この一人称神視点を含め本作には「元ネタ」があると僕は思っていて、アメリカの作家カート・ヴォネガットの『ガラパゴスの箱舟』という小説がそれである。次回はこの本について書いてみたい。
『太陽・惑星』新潮社
上田岳弘/著