2019/03/04
坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長
『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』KADOKAWA
千葉雅也 二村ヒトシ 柴田英里/著
あなたは、最も手軽に入手できる「麻薬」を知っているだろうか。
その「麻薬」は、覚せい剤や大麻とは異なり、いつでも・どこでも・誰でも、無料で入手することができる。わざわざ繁華街の路地裏に行って、警察の目を気にしながら売人を探す必要もなければ、裏サイトで売買する必要もない。ポケットの中のスマホを開くだけで、24時間365日、好きな時に使用することができる。
その「麻薬」とは、「怒り」である。怒りは、人間が抱く感情の中で最も中毒性の強いものの一つだ。
怒りという感情は、それを感じた本人固有のものであり、交換や売買はできない。
しかし、ネット社会の発展に伴うフィルターバブル(=同じ価値観を持つ人同士が集まるようになり、自分の見たい情報しか見えなくなること)の肥大によって、あたかも自分の怒りと他人の怒りを交換・共有できるような錯覚がもたらされるようになった。
その結果として、他人の怒りを自分の怒りと同一視して、常に怒り続ける状態に耽溺する人が増えた。SNSを開けば、24時間365日、怒るべき事件、怒るべき発言、怒るべき政治家、怒るべき広告が溢れかえっており、いつでも好きなだけ「怒りたい気持ち」を充填することができる。
そうした中で、「私の怒りを盗むな」と叫ぶ人まで現れた。「物盗られ妄想」ならぬ「怒り盗られ妄想」だ。
「いや、誰もあなたの怒りなんて盗んでいないし、盗みたくもないですよ」とたしなめたくなるが、他人の怒りを充填し続けた結果、自分の怒りと他人の怒りの区別がつかなくなり、「それは私の怒りだ」「その事件・発言に対して怒っていいのは、私だけだ」という「怒りの奪い合い」「怒りの覇権争い」が起こっている。
当事者・被害者・マイノリティを装って他人の怒りを盗むこと、盗み返すことがやめられなくなる。こうした現象を「怒りの万引き」と呼ぶことにしよう。
万引きを繰り返す人の大半は、経済的困窮が原因ではなく、やめたくてもやめられない依存症の状態にあると考えられている。認知症や摂食障害との関連も指摘されている。
怒りの万引きについても、依存症に極めて近い側面がある。ツイッターをはじめとするSNS上では、今日も「怒りの万引き」に精を出す人たちのつぶやきや投稿で溢れかえっている。それが盗品であろうがあるまいが、気持ちよくさえなれれば、それで構わないのだ。
学校で嫌なことがあったら、結婚を意識していた恋人に振られたら、職場で上司に怒られたら、将来に漠然とした不安を感じたら、とにかくスマホを開いて、いつものヤツ=「怒り」をキメればOKだ。怒りは決して裏切らない。怒りは全てを忘れさせてくれる。
本書『欲望会議』の中で、哲学者の千葉雅也氏・AV監督の二村ヒトシ氏・現代美術家の柴田英里氏は、こうした現状について「怒りにとらわれることは発情・オーガズムと同じ」と分析しつつ、「セックスについて怒ることそのものがセックスになっている」と喝破している。心に刺さる警句が満載の一冊だが、この一行に出会えただけでも、本書を読む価値は十分あるだろう。
そう、SNS上においては「イキる(=当事者・被害者・マイノリティから盗んだ怒りを全身にみなぎらせ、他者を攻撃・威圧する)」ことと、「イク(=性的な絶頂感を味わう)」ことは機能的に等価なのだ。
「一盗二卑三妾四妓五妻」という言葉がある。これは、男性が欲情する女性の対象を順に表した格言だ。「盗」は他人の妻、「卑」は下女や部下、「妾」は愛人、「妓」は風俗嬢や売春婦、「妻」は自分の妻を意味する。
男女共に、最も強烈な快楽をもたらしてくれるセックスは、不倫や寝取られ=他人の配偶者を盗んだ時、あるいは他人の配偶者から盗まれた時と昔から相場が決まっている。
これと同様に、私たちに最も麻薬的な快楽をもたらしてくれる怒りとは、自分自身の怒りではなく、他者から盗んできた怒りなのだ。
自分自身の体験に基づく怒りはいつか風化してしまうが、他者から盗んできたものであれば、いくらでも充填できるし、永遠に怒り続けることができる。
セックスについて怒ることそのものがセックスになってしまった社会で、「怒りの万引き依存症」になってしまった人たちは、もはや他人の怒りを盗むことでしか発情できないし、絶頂に達することもできない。
私自身を含め、他者から盗んできた怒りではどうにも発情できない人、怒りを全身にみなぎらせるだけでは個人も社会も幸福になれないと考えている人にとって、本書は他人の怒りを盗まずに生きるため、怒りに囚われない欲望をデザインするための指針になるだろう。
『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』KADOKAWA
千葉雅也 二村ヒトシ 柴田英里/著