作品論としてもおもしろい 名作の恋愛に切りこむ痛快評論

馬場紀衣 文筆家・ライター

『恋愛学で読みとく文豪の恋』 
光文社 著/森川友義

 

 

本書の著者の専門は政治学と恋愛学である。恋愛学とは、その言葉の通り人間の営みとしての恋愛を科学的に研究する学問。恋愛といえば、人の心の動きを観察する心理的側面ばかりが注目されがちだが、これは恋愛学のほんの一部にすぎない。社会的な行為である恋愛の研究分野はじつはとても広い。進化生物学や進化心理学、さらには経済学や政治的な観点からも恋愛の影響を分析することができる。

 

著者はこうした観点から、夏目漱石の『こころ』をはじめ森鴎外の『舞姫』、太宰治『斜陽』といった日本を代表する作家たちの恋愛に切りこんでいく。名作の恋愛はいったいどこまでリアルなのだろうか。作品の時代性や現代との整合性について考察することで、より深く名作を読みこもうというのが本書のテーマだ。

 

誰でも一度は読んだことがあるだろう名作には、現代の私たちにも参考になる恋愛のテクニックが隠されている、と著者は言う。片思い、ひとめぼれ、不倫に破局。恋愛での苦労や喜びはいつの時代も変わらない。一方で、どうにも不自然な恋愛描写に出くわすこともある。

 

 

私の愛する作家のひとり、田山花袋の『蒲団』は主人公がちょっと気持ち悪いことで有名な「においフェチ小説」だ。ところでこの作品、私小説だということで、主人公のモデルは作家自身ということになっている。この事実がまた、作品にいっそう不快なイメージを与えているのかもしれないが、恋愛学の観点から読み解くと「キモい」「変態」のイメージがすこし変わってくるからおもしろい。

 

美しい女子大生の芳子と不倫をしたくていろんな妄想をする主人公が、押し入れにしまってある芳子の蒲団をとりだし、においを嗅ぐ。物語の終盤で描かれる主人公の姿は強烈な印象を読者に与える。まさに名場面だ。

 

体臭にはさまざまな情報が含まれている。著者は、人間は体臭を嗅ぐことでお互いの遺伝子レベルでの相性を確かめ合っているのだと述べる。なかでもとくに重要なのが、自分と他者を区別するHLA遺伝子だ。子孫を残す際のリスクを回避するために、人間は本能的に自分に近しいHLAを遠ざけるようにできている。そして、その情報をもたらしてくれるのが、嗅覚だというのだ。小説だと「キモく」感じるかもしれないが、人間心理の観点からすると、主人公の行為はどうやら健全なようだ。

 

本書は作品論としても読みごたえがある。恋愛学をベースに専門家でなければ分かりえない感覚や分析が随所にあるからだ。また、本書を読み進めていくと、文豪たちの描く恋愛のバリエーションの豊かさに気づかされるだろう。名作のなかに、自分もかつて経験したことのある恋愛経験を見つけられるという点もまた、本書の魅力だ。

 

『恋愛学で読みとく文豪の恋』 
光文社 著/森川友義

この記事を書いた人

馬場紀衣

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文筆家・ライター

東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。

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