ryomiyagi
2019/12/18
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2019/12/18
※本稿は、長山靖生『恥ずかしながら、詩歌が好きです ~近現代詩を味わい、学ぶ~』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
恋の歌となったら、もう、与謝野晶子を超える人は今もいないのではないかというくらい上手くて赤裸々。なかにはおじさんには刺激が強すぎるものもあります。
晶子の第一歌集『みだれ髪』は明治三四年八月、スキャンダル冷めやらぬ中、鉄幹のプロデュースで出版されました。これがまあ、官能のるつぼ。
『みだれ髪』でいちばん有名なのは〈やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君〉だと思いますが、どうしてこれがそんなに有名なのか、私にはよく分かりません。いくらでも過激なのはあるのに。
教科書的な自主規制の結果、この歌を代表作みたいに示すということになったのでしょうか。戦時中の決定が、未だに踏襲されているのでしょうか。
だいたいこれは映画でいえば予告編ですらなく、テレビの番宣番組で「面白いです。観て下さい」と言ってる女優さんみたいなもんです。
揶揄的だし、色っぽくないし、「道を説く君」って僧侶かと思いますが、たいてい遊郭くらい行っています(独断と偏見による)。そういえば鉄幹も僧侶の家に生まれ、若い時に得度を受けています。……もしかしたら浮気性の鉄幹に対する嫌味なのかもしれません。
さて、官能的な歌です。『みだれ髪』は冒頭から〈夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢(びん)のほつれよ〉と刺激的。いくつか紹介してみましょう。
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな
紫の濃き虹説きしさかづきに映る春の子眉毛かぼそき
くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊(たま)の香のなき歌のせますな
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
文字ほそく君が歌ひとつ染めつけぬ玉虫ひめし小筥(こばこ)の蓋に
月の夜の蓮のおばしま君うつくしうら葉の御歌(みうた)わすれはせずよ
百合の花わざと魔の手に折らせおきて拾ひてだかむ神のこころか
このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春
引用しだすときりがありません。このへんにしておきますが「I love you」を「月がきれいですね」と訳すのが正解だという話は、もしかしたら漱石ではなくて〈月の夜の〉の歌に由来しているのではないか──と思いたくなります。
そもそもロマン派は泰西の本場からして月が大好きで、エドゥアルト・メーリケの詩文には〈君は麗し、君は月の子〉というのがあります。そのまま愛の告白ですね。
〈百合の花〉は聖母マリアの象徴であり、純潔を意味しますが、それをこのように扱うのも大胆ですね。そういえば漱石の『それから』でも、不倫に足を踏み入れる男女の気持ちを象徴する場面で百合が用いられており、この辺りには正統派の信仰図像学ではなく、十九世紀末の英国ラファエロ前派の耽美的表現の影響、また晶子と漱石の相互参照が想起されます。
〈酒のかをり〉は、自分が飲んだ酒ではなく、寄り添っている男から香ってくるのでしょう。刺激的です。なお、ここに引用したのが「予告編」レベルで、本編はまだまだすごいのありますから、ぜひお読み下さい。
一方、益荒男ぶりの与謝野鉄幹は、戦争詩や歴史叙事詩には優れた大作もありますが、恋歌は晶子ほどではありませんでした。でも、詩にはそこそこいいものがあります。
詩を引いておきます。
女
癖のあるこそ女(おなご)はよけれ
すねるのもよい無理もよい
宵の笑顔が壱分なら
泣いたまぶたに五両だぞ
ずいぶん上から目線ですね。だいたい昔の男は、女は上から見る「べき」だと思っていたところがあり、男女平等、ましてや女性上位には耐えられない弱さがありました。それが“益荒男”の本性です。本当はけっこうヘタレ。だから虚勢を張らないと生きていけない。
「黙って俺についてこい」は「しっかり後ろから支えてね」という意味でした(だから昔の夫が妻に告げる最大の愛の言葉は「お前は駄目な男を支えるのが上手いな」でした)。
昔の女性はそれを分かっていて、夫を掌で躍らせていたのでしょうが、平等になって並んで歩くとなると、男はフラフラとどこかに行ってしまうか、とぼとぼ後ろからついてくるだけ。
男自身がそれに慣れて、自分の頼りなさを平気で晒すようになり、かえって女の側が苛立っているのが現代です。
並んで歩くのは、かくも難しい。男女どちらが先を歩くにせよ、たまには立ち止まって相手を待たないと、やわ肌にふれられなくなるどころか、声すら届かなくなるので気を付けましょう(以上、おじさんの反省ならびに弁解でした)。
与謝野鉄幹は優れた詩歌人でしたが、晶子の才能はそれをさらに上回っていました。鉄幹自身、それが分かるだけに、苦しい気持ちになることもあったようです。もちろん、それを浮気の言い訳にしてはいけませんが、そこはそれ、夫婦間で解決すればいいことで、外野が騒ぐことではありません。いろいろありましたが、けっきょくふたりは添い遂げました。
そんな鉄幹の、いちばん有名な詩は「人を恋ふる歌」でしょう。昔は酔ったじいさんが、よく歌ってました。でもこれ「お前は駄目な男を支えるのが上手いな」の見栄張りバージョンですよね。
人を恋ふる歌(抄)
妻をめとらば才たけて
顔(みめ)うるはしくなさけある
友をえらばば書を読んで
六分の侠気(きょうき)四分の熱恋のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む
明治男の理想というか建前を詠った詩ですが、鉄幹の場合「妻をめとらば才たけて」が、奥さんの才能に気圧される男の悲哀をも感じさせます。
ちなみにこの時代、男は友情と恋愛のどちらを優先させるべきかといえば、友情をとるのが社会正義でした。
夏目漱石の『こころ』で、若き日の先生は、親友のKと下宿の娘さんを取り合うことになりますが、先生が深い罪悪感を抱くのは、そうした社会通念があるためです。
これは昭和戦前の小津映画でも共通しており、『青春の夢いまいづこ』(昭和七)では、友人同士が相手の気持ちを慮って好きな女を譲り合います。
現代では、価値観自体が違っていますね。戦後は正々堂々と取り合うのが正解となり、現代では女の子に選んでもらうのがコモンセンスというところに来ています。
どれが本当に正解なのかは、ケース・バイ・ケースでしょうし、本当に「正解」なんてあるのかどうかも、実は分かりません。
何しろ鉄幹は、同棲中に女を替える男、才たけた妻があっても女弟子と噂の絶えなかった男です。イデオロギーはかくも現実と隔たりがあり、だからこそ「作品」は面白いということもあるのでしょう。
長山靖生
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