2021/03/11
坂上友紀 本は人生のおやつです!! 店主
『ヨーロッパぶらりぶらり』筑摩書房
山下清/著
「山下清画伯」と聞けば、ある年齢以上の人は、即座に「裸の大将放浪記」(※)を思い浮かべるのではないでしょうか。
(※ 1980〜90年代に、俳優・芦屋雁之助が画家・山下清役を演じた、ホームドラマの名称。毎週日曜の夜9時から1時間放映され、赤い傘を差したリュックを背負って短パンにタンクトップ姿の芦屋雁之助が演じる山下清の、「僕はおむすびが食べたいんだな」というセリフが印象的)
かくいう私もその一人で、子供の頃にはいつもこの番組を楽しみに観ていました。だから、初めて『ヨーロッパぶらりぶらり』を見つけた時には、「えっ! あの裸の大将が本を書いてたの!? しかも、日本だけでなくヨーロッパも放浪していたの!?」とびっくりしてすぐに読んでみたのですが、短い旅行でもビザが必須だった時代のはなし。さすがに日本を放浪していたようにはヨーロッパを放浪してはおらず(できず)、だから『ヨーロッパぶらりぶらり』は清さんの放浪記ではなくて旅行記でした。
ちなみに、ここで言うところの「あの裸の大将」とは、「おっちょこちょいで可愛らしい山下清」のことで、それが実は「(テレビの)キャラクターとしての山下清」であったことが、冒頭から実感されるような本でした。なんとなれば、全然可愛くないやないかーい!と叫びたい気持ち……。可愛いというよりもむしろ皮肉屋で、そして大変リアリスト。それが、本来の山下清画伯だったのでございます! このままでは確かに、日曜夜9時のホームドラマの主役にはならなさそう……。と思われる性質には、「テレビの山下清」とのギャップがゆえに初めこそ戸惑いを覚えたものの、噛めば噛むほど味の出てくるスルメのごとく、読めば読むだに一筋縄ではいかない清さんの物の見方や感性に、惹きつけられて仕方なし!
また、独特なるその性質を伝えるための手段が、ものすごく「ぐるぐるとした文章」に依ることも、合わせて興味深いです。「ぐるぐるとした文章」である理由の一つは、単純に「一文、一文が長い」ため。次には、「ひらがな」の割合が高いので、ぱっと見、一つの言葉がどこで切れるのかがわかりづらいから。そして最後の理由は、清さんの絵を見れば明らかです。彼の絵は、細かくちぎった紙を合わせた「貼絵」が多いのですが、貼絵以外でも例えばこの本の表紙絵のような点描でのスケッチも、どれもに共通しているのは「細部まで細かい」こと。そういった絵の特徴と同じように、彼が物を見る方法は、すごくすごく細かいのです。例えば何かの建物を見るとして、大方の人が全体を見て「綺麗だね」で終わるところを、まずは正面から見て、次に右から、そして左から。最後に後ろから、と思いきや再度正面から。で、流石におしまいかと思いきや、時によって何なら上からも見れば、斜めからも見たりしてー! で、ようやく「これは綺麗だな」と結論づける感じです。で、その自分が辿った行動や思考の過程をあまねく伝えようとするから、「長くて、細かい(しかもひらがなが多用された)」=「ぐるぐるとした」文章になるのでした。
ところで面白いのは、ぐるぐるしている割には、「これ以上はわからない」(とか、急に興味が失せたり、自分の中で結論が出たり)となると、一気にクールに突き放すところ。そのぶった切り感はいっそ清々しいほどで、リアリストだなー!と感嘆してしまいます。例えばデンマークのコペンハーゲンでアンデルセンの「人魚姫」の像を見た後、今度は『みにくいあひるの子(醜いと他のあひるの子に虐められていたあひるの子が、実は白鳥の子供で、大きくなったらあひるよりも美しい白鳥になった、という話)』について、同行の式場先生(清さんの主治医)と話すくだり
ぼくはあひるが白鳥になることはできないので、ほんとはきたないあひるの子がおとなになってすこしきれいになったので、みんなが白鳥とまちがったのだと思う。
(略)
「アンデルセンは、おとぎばなしだからあひるの子を白鳥にしたんだな。ほんとの話をかくと子供がよろこばないのかな」というと
「人間はどんな不幸なときでも、さきにしあわせが待っているかもしれないと思うと、元気がでてくる。アンデルセンは人間にいい夢をつくってくれた」と先生がいうので
「いい夢でもわるい夢でも、夢は夢だな。さめればおんなじだ」
「清はしあわせになりたいと思ったことはないのかな」
「しあわせになれるかどうか、さきのことはわからないな。ぼくはしあわせでも不しあわせでもなくて、いつもふつうだな」というと、だんだん日がくれてきて、人魚の像もただの黒いかげみたいになってしまったので、町へ帰って洋食をたべて、宿屋に帰ってねたが、夢はみなかった。
先生との会話からの、「というと、だんだん日がくれてきて……」への文章の繋げ方なんて、もはや芸術の域に達していると思う。多分、言い終わったその時、まさに日がくれてきたのだろうけれども、会話の余韻とかが全然感じられない繋がり方なので、だから逆に気になって印象に残ってしまうのですが、こういう書き方ができるのは、きっと(日本放浪の時代も含めて)清さんがフィールドワーカーだからなのかなと思います。実見に基づいているので、感傷的にあまりならない。だって、事実だから(ちなみに、実見に基づくことで、結果すごく文学的な表現を生み出している箇所もままある)。また、すごいなぁ!と思うのは、自分のこと以外でも言い切ってしまうところ。例えば自分とゴッホの自画像についてのくだり
ぼくは自分の顔を五度くらい貼絵にしたので、自分の顔だからあまりみっともなくかかないようにしようと思っても、鏡をみてかいているうちに自分の顔だということを忘れて、景色をスケッチするときと同じように自分が感じたままかいてしまうので、できあがった「自分の顔」をみると大ていこわい顔になってしまう。
ゴッホも生きている間はびんぼうで、金をだしてモデルをたのめなかったので、人物を絵にするときは自分の顔をかいたので、もうすこしいい男にかこうと思ってもできあがってみたらこわい顔になっていたので、ゴッホもできあがった「自分の顔」をみてがっかりしたのです。
がっかり「したのです」と言い切るあたり、やはり山下清はただものではないな!と思ってしまったのですが、そういった感じで、アラスカでもドイツでもオランダでもパリでも、どこに行っても清さんは清さんの見たまま感じたままを伝えてくれていて、その一つ一つが自分にはない観点だったり、あるいはあったとしてもそこまで多角的に考えたことがないことだったりで、いろいろたくさん目から鱗!となった『ヨーロッパぶらりぶらり』でありました☆
ところで本編の内容もさることながら、赤瀬川原平の手による「解説」もまた絶妙です! 解説で触れられている「山下清の原文」(本になるにあたり、編集が入っている模様)も気になるところですが、たった6ページにも関わらず、読後、山下清の生涯に思いを馳せてしまう名解説なのでありました。
『ヨーロッパぶらりぶらり』筑摩書房
山下清/著