2021/06/21
馬場紀衣 文筆家・ライター
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社
伊藤亜紗/著
人が外界から得る情報の八割から九割は視覚に由来するという。それはすなわち、目に依存し過ぎているということであり、体の可能性のほんの一部しか使っていないということでもある。タイトルにあるように、本書は目の見えない人の「見方」に迫った一冊。美学と現代アートを専門とする著者が「見えない」世界でのコミュニケーションの方法、空間認識の仕方や体の使い方を、視覚に障害を持つ人へのインタビューやワークショップ、日々の何気ない会話から分析していく。
「見えない人」と言っても、その内実はさまざまだ。視野が狭いのか、色が分かりづらいのか、少し見えるのか、あるいは全く見えないのか。「見方」は人によって異なる。そのため、本書では論として一般化させる手続きがとられている。そのうえで、「見えない人」の世界を覗いてみると、繊細で自由なもうひとつの世界が拡がっていることに読者は気づくだろう。
「見える世界に生きていると、足は歩いたり走ったりするもの、つまりもっぱら運動器官ととらえがちです。しかしいったん視覚を遮断すると、それが目や耳と同じように感覚器官でもあることがわかる。足は、運動と感覚の両方の機能を持っているのです。地面の状況を触覚的に知覚しながら体重を支え、さらに全身を前や後ろに運ぶものである足。暗闇の経験は、『さぐる』『支える』『進む』といったマルチな役割を足が果たしていることに気づかせてくれます。」
見えない人の足は、サーチライトとしての機能を果たしているとの著者の指摘は興味深い。サーチとしての足を細かく動かし、触覚的に調べることで、見えない人は道路を歩き、階段をのぼる。このとき、足は「歩く」だけでなく「さぐる」仕事も行っていると言うのだ。
運動器官でもあり感覚器官でもあるという足の特性を物語るエピソードがある。あるとき、著者は電車で白杖を持ったひとりの男性に目にとめる。
「電車が動きはじめ、しばらく順調に走っていましたが、次の駅に着く手前で突然ブレーキがかかったのです。急ブレーキというほどではありませんでしたが、多くの人が、つり革につかまっていた人でさえ、バランスを失ってよろめきました。ところがその白杖を持った男性は、足を肩幅に開いたまま、表情一つ変えずに同じ場所に立っていたのです。」
線路のつなぎ目、ポイントの切り替え部、車両の速度や揺れといった、見える人が見逃してしまうような靴底からの振動や音もまた、見えない人にとっては重要な情報源になる。もちろん、見える人もおなじように揺れや振動を感じ、無意識に体の重心を移動し、体勢の微調整を行っているだろう。しかし視覚情報がない場合では、「自分の体の状態と電車の揺れが、よりダイレクトに結びつく」らしい。その上で、見えない人はこれから起こるかもしれないことをより慎重に予想し、突然のオフバランスにも対応できるように構えていたのではないかと、著者は分析する。
「見る」ことそのものを問い直す本書は、人と人が共に生きるためにはどうするかという問いを考える上でも示唆に富む一冊だ。障害と無関係な人はいない。誰しも年をとるし、視力も落ちていく。
「そうなると、人と人が理解しあうために、相手の体のあり方を知ることが不可欠になってくるでしょう。異なる民族の人がコミュニケーションをとるのに、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、これからは、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくるのです。」
多様な身体を記述し、そこに生じる問題に寄り添うこと。高齢化社会とは、さまざまな障害を持った人がさまざまな体を駆使して一つの社会を作り上げていく時代のことでもある。「見えない人」の世界を垣間見て、視野が広がる、不思議な一冊だ。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社
伊藤亜紗/著