2021/06/22
馬場紀衣 文筆家・ライター
『流卵』河出書房新社
吉村萬壱/著
鼻のチューブから送り込まれる息すら満足に吸えず、流木のように白く枯れた父親の身体が横たわる病室から物語は始まる。「父の貧相な脹ら脛(ふくらはぎ)は母の半分の幅もない」と同時に、長く忘れていた少年時代の記憶が蘇る。脛毛(すねげ)すら生えていない自分の生脚を撫で回す父の裸足、同じクラスにいた同性の友達への怒りと興奮。なにより、中学二年生の一年間は少年にとって特別な時代だった。
物語は、中学二年生ならではの馬鹿々々しくも真剣な、回想パートを中心に進行してゆく。誰にでも口にするのも恥ずかしい少年期の思い出があるに違いない。少年にとっての黒歴史は、クラスメイトの北村晴男をきっかけに没入したオカルト趣味だ。しかしそれは単なる好奇心の粋をすっかり超えている。性の欲求をオカルトと結びつけた少年は、深夜の森でペニスの先端を月に向けて蟾蜍(ヒキガエル)や野兎と言葉を交わし、自己を女性化し、幻想の世界と現実の世界を行き来する。妄想から飛び出して行われる狂態に少年が自覚的であることからも、彼の本気が感じられる。しかし、悪魔崇拝への思い込みは母親から投げ捨てられた「ヘンタイ」の一言で揺らぎ始める。
本書を読んでいてなによりも印象的なのが、脚をめぐるイメージの数々だ。序盤の父の貧相な脹ら脛にはじまり、テレビを観ながら息子の脚を女の脚に見立てて愛撫する場面や久々に会うことになった父親が見たこともないピンク色のスラックスを履いていたこと。海で生白い自分の足を何かに撫でられたこと。テーブルの下で少年の父親が足の親指と人差し指で主人公の脹ら脛の肉をつまんで笑う姿は、息子をふざけてからかっているようにも見えるし、屈折した性欲のようにも思える。
物語はさらに、母親へのアンビバレントな感情やシンナー吸引による幻覚状態などが描かれ、少年を取り巻く呪縛に読者は幾度となく引きずりまわされることになる。中学二年生の「私」の言葉はどこか乱暴であどけない印象だが、同時にその語り口がリアルに迫っているようにも感じられる。やがて十七歳になった少年は、八十六歳となった父親の最後を母親と看取るのだが、夫を失い、洟(はな)をすする小さく非力な母を見つめる主人公の視線は冷たい。
「夢想によって現実を捻じ曲げる事、世界を自分に都合よく捏造する事、それは中学二年の夏の終わりに私が母や北村晴男と共に葬り去った生き方そのものだった。私が捨てた生き方に、母はずっと固執している。母にとってはもう、捏造した物語こそが現実なのである。」
「私」は、何度も洟をすすってみせる母親を背に眠りにつく。そして、物語は最後に意外な展開を迎えることになるのだが、それはぜひ自分の目で確かめてもらいたい。
『流卵』河出書房新社
吉村萬壱/著