2021/10/20
横田かおり 本の森セルバBRANCH岡山店
『センス・オブ・ワンダー』
レイチェル・カーソン/著
ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、真っ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧き上がるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。
これは私の記憶でしょうか。
いえ、そんなことがあるわけがありません。
なぜならこれは著者であるレイチェル・
けれども、なぜでしょう。
私にはまるで、あたかも本当に体験したことのように感じられるのです。
それは、前世と呼ばれる記憶の切れ端とつながっているからなのかもしれません。
みなもとへと還る旅の道中に誰もが見つめる景色だからなのかもしれません。
嵐の夜。
ごうごうと吹く風は衣服を体に巻きつかせ、前に進むのだって困難だったことでしょう。しかし、その威力に気圧されながら、時には導かれるように進みながら、二人が辿り着いた先には海と陸が均衡を保つ聖なる場所がひろがっていました。
大いなる自然の脅威は畏怖となり、あまりにも小さな私たちはそのゆりかごの中で慈しまれていました。
真実が真実として差し出されるとき、私たちははからずとも笑ってしまうものなのかもしれません。不意に涙をこぼしてしまうものなのかもしれません。
その瞬間にはきっと、何もかもが赦され抱きとめられているのでしょう。
もし、あなた自身は自然への知識をほんのすこししかもっていないと感じていたとしても、親として、たくさんのことを子どもにしてやることができます。
たとえば、子どもと一緒に空を見あげてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空にまたたく星があります。
決して作り出すことのできない自然の美しさに触れるとき、自らの矮小さを嘆き、絶望の材料にしてしまうことはなんとたやすいことでしょう。かき集めた知識は何の役にも立たず、拾い集めてきた言葉さえ今ではガラクタのように光を失っています。
けれど、こんな自分をもう責めないことにします。
言葉を失ったからこそ純真な魂とともに見上げられる夜空の在りかを、私は知っていたのです。それは夢のなかでは何度も訪れ、いつか過去においてきっとその場所が私の住処でした。きらめく星とともに、眠り戯れ、言葉の代わりに音楽を交わし合っていた日々があったように思うのです。
性別や年齢でさえも超えた世界で、ただの有機物となった私たちは、星のまたたきが命の鼓動そのものでした。朝陽のまばゆさも、黄昏の儚さも、心のゆらぎが反映されたものでした。
硬く冷たいアスファルトのうえ、
朝には太陽へと感謝を告げ、夜には月へと祈りを捧げ、幾日も幾たびも繰り返してきたというのに。今とはまったく違う時の狭間にいた私たちにとって、舞うことは仕事で、調和することが使命でした。
空を舞う鳥のさえずりは私の歌声。通り過ぎる風には精霊の気配があり、木々たちのざわめきは神々のおしゃべりそのものだった。
朝露は涙のかわりに零れ輝き、空を駆ける雲は秒針を刻まぬ時計。
寄せてはかえす波のリズムはいのちの鼓動と同じくして、遠くに光る星のきらめきが魂の永遠性を物語る。
忘れてしまったことが、たくさんありました。
疑うこともなく軽々と差し出してしまったことがすべての悲劇のはじまりだったのです。
この世界で生きていくために、心は重すぎ、魂など最初からなかったことにしたほうがよいように感じられました。身体も心も魂ですら明け渡し、差し出して。
そうすることで、軽やかに歩いていけるような気がしたのです。
でも、手遅れということもないのだろうと思うのです。
物語を媒介にしてつながる深い場所には、いのちがいのちの姿そのままにすやすやと寝息を立てながら眠っています。
春には花々が囲い、夏には木々が守り。
秋には落ち葉が毛布となって、冬にはあたたかな雪が降り積もります。
そこに集う動物たちの声を、虫たちの音色を、山を海を、大地の姿を、あなたも思い出すことができませんか。思い出される情景を、本の中に見出すことはできませんか。
それは私たちがいた場所です。私たちが、還る場所です。
その場所で、あなたのかえりを待っています。
あなたの声が、ふたたび世界にいのちを吹き込む日を待っています。
『センス・オブ・ワンダー』
レイチェル・カーソン/著