難解な物語のラストに注目!「からだ」とは、「わたし」とは何かをめぐる思索の旅

馬場紀衣 文筆家・ライター

『人外』講談社 
松浦寿輝/著

 

「人外」という存在の在り方に、読者はまず戸惑うことになるだろう。アラカシの巨木の枝の股から外へと滲みだし、四足を伸ばしてゆっくりと這ってゆく「それ」は神か、あるいはけだものか。それ、はまさに「人外」と呼ぶほかない何かだ。本書は、幾十人ものヒトの記憶をもつ一つの個体である、ヒトならざる「わたしたち」が朦朧とした意識の状態から次第に、言葉や思考を獲得し「わたし」へと到達する物語。

 

「だんだん明るんできた意識はクサ、カゼ、モリ、サムサ、シズケサをつぎつぎに意識し、とともにわたしたちじしんのからだも意識して、ワタシタチ、ハ、ワタシタチ、デアルとかんがえ、と同時にまたカンガエルとはこういうことかと驚きもしたのだろう。まずからだがあり遅れて意識がそのからだにやどったわけではなく、意識を通じてからだが、からだを通じて意識がとつぜん、一挙に、同時に、くっきりとたちあらわれその瞬間わたしたちはわたしたちとなったのだろう。」

 

文章はどこか哲学的で分かりにくい。しかし主人公が「人外」であるということが、この作品のすべてを物語っているように思える。なにかに導かれるようにして「人外」は、どこか荒廃した風景のなかを駆け巡る。たとえば「人外」はよどめなく増殖してゆくコトバのつながりの中で、イマという時間軸の重要性を獲得する。草むらに横たわり、黄色い穂先をかじるがまずかったので吐きだす。

 

「人外」は「さびしさ」も感じることができる。そのさびしさを「ヒトもふくめて生きとし生けるものすべての根底にある感情」ではないかと考えることもできる。戸惑いつつ、驚きつつ精神的な成長を遂げるさまが手の込んだ技法で綴られていく。

 

やがて「人外」は海へたどり着く。波が前足を濡らし、冷たい海水を舐めて、その味を確かめる。そして唐突に、自分もまた海なのだという思念を受けとる。そして、自らに問うのだ。

 

「からだとは結局、なんだろう。いのちの水でみたされた袋。それでしかない。海を、そのほんの微小な一部分をからだのなかに持ち歩きつつ陸の世界をさまよう。人外にとってそれが生きるということだった。じぶんのからだを海じたいから切り離したまま持ち歩くことが可能なかぎり、生きるということはつづく。ならばそれをもうすこしだけ、つづけられるだけつづけよう。いずれそのうち、からだを海にかえすときがきっとおとずれる。そのはずだ。」

 

難解な物語の序盤に戸惑うかもしれないが、難しさを理由に本を閉じてしまうにはもったいない作品だ。読み進めるうちに「人外」の言葉は流暢になっていく。「人外」が巡り歩く世界は死の匂いが濃く、そして美しい。最後には、胸を震わせる展開が待ち受けている。

 


『人外』講談社 
松浦寿輝/著

この記事を書いた人

馬場紀衣

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文筆家・ライター

東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。

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