2022/01/20
金杉由美 図書室司書
『食べることと出すこと』医学書院
頭木弘樹/著
食べて出す。
それがうまくいかないだけで人間の日常はこんなにも壊れてしまうのか。
本書は20歳の時に潰瘍性大腸炎を患い、13年間入退院を繰り返した著者の闘病記。
ものを少し食べただけでも、腸のすべてが流れ出てしまったかのような大出血を起こす。どこで下痢が始まるかわからないから外出もままならない。排便の回数が多ければ多いほど内臓は傷んでいく。下痢と下血の勢いはものすごく、コントロールできない。しかも寛解はあっても完治はしない。
それまで健康だったのにいきなりそんな難病にかかり人生がズタズタにされてしまった。
まさしく絶望!これはもう絶望しかない!
著者は絶望の底で同じように絶望と闘いながら生涯を送ったカフカに共感し、カフカとその他の文学者の作品から多くの言葉を引用している。あまりにも引用が多いので気になっていたら、著者はカフカの研究者で「絶望名人カフカの人生論」「NHKラジオ深夜便 絶望名言」などの著書もあると知った。なるほど。
口から物を一切食べられなくなったときに人はどう感じるのか、便を漏らすということがどれほど心に致命的なダメージを与えることなのかなど、リアルすぎるほどリアルな経験が語られる。とにかく「壮絶」の一言だ。
難病で食べられませんと断っても、「ちょっとだけなら」「少しだけでも」と執拗に飲食を勧めてくる人が存外に多い、という話は怖かった。そんなこともあるだろうなと思うから、余計に怖かった。それは善意からなんだろう。少なくとも勧めてくる当人は善意だと信じているのだろう。でも食べたら大変な事態が起きるかも知れないのだ。そのときに善意の人々は責任をとってくれるのか。とってくれないよね。「良かれと思って」「まさかそんなことになるとは」と同情的に言うだけだろう。「それならそうと説明しておいてくれれば」くらいのことまで言っちゃうかもしれない。善意って恐ろしい。
潰瘍性大腸炎の痛みについての話も想像を絶する。耐えにくい種類の痛み、未知の痛み、朦朧として壁を爪でひっかくほどの痛み。
それを他人に理解してもらうことは無理だと著者は静かに諦めている。
どんなに言葉を尽くして説明しても、どんなに相手が自分のことを思いやってくれていても、その痛みを共有することは出来ない。寝ても覚めても地獄の中にいて片時も業火から逃れられないのは当人だけなのだから。
経験した人間にしかわからない想像の及ばない、悪夢のような世界に永久に閉じ込められてしまった恐怖。
家族といても疎外感を覚え、看護師に脳が記憶を削除するほどのひどい仕打ちを受けても、その現実を受け入れるしかない。
完治することのない難病にかかったために突然襲ってきたとてつもない苦難、心身に負った数えきれない傷、変わってしまった運命。
それを声高に悲憤慷慨するのではなく淡々と事実として語っているところに、逆に著者の傷の深さを感じる。
だからこそカフカの絶望や山頭火の孤独に著者は共感したのではないか。
周囲に共感を求めるのは不毛だけれど、文学の中にはシンクロできる言葉が見つかる。
そこには、誰にも届かない悲鳴を喉が枯れるほどあげてきた人間だけが聞き取れる、そういう叫びが封じ込まれている。
小説や詩の一節に助けられることって本当にある。
闇の中で稲妻のように閃いた言葉にすがって、かろうじて生き延びられることが。
絶望してその果てに死んでしまった作家の言葉に助けられるなんて矛盾しているようだけど、同じような絶望を抱えた人間が他にもいたという事実が孤独の重さを少しだけ軽くしてくれる。
本を読む意味は、きっとそんなところにも存在する。
カフカも自分の悲鳴が100年も後に誰かを助けるなんて思ってなかったに違いないけど。
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