人を笑わせる男と独裁に陶酔する男の闘い。今こそ知るべきチャップリンの『独裁者』が生まれた舞台裏

白川優子 国境なき医師団看護師

『チャップリンとヒトラー』岩波書店
大野裕之/著

 

 

ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まった。21世紀のこの時代、未だに戦争を権力の象徴と正義に履き違えている独裁者が暴走している。あちこちのメディアがそれを取り上げ、愚かな戦争と独裁者が世界中で話題になっている今だからこそ、紹介したい本がある。

 

時は、第二次世界大戦の真只なか。主人公は世界中から愛された喜劇王のチャーリー・チャップリンと、世界を残酷な姿に変えた独裁者のアドルフ・ヒトラー。この2人は、なんとたったの4日違いで生まれ、同じ時期に同じような髭を生やし、そして世紀の闘いを繰り広げた。本書は、今まで明らかにされてこなかった2人の宿命的な闘いの実相を、近年見つかったという様々な資料や証言をもとに追っている。

 

1940年6月22日、ドイツがフランスを降伏させ、世界は震撼した。ヒトラーが全世界に自分の権力を見せつけて陶酔しているその翌日、チャップリンはたった1人スタジオに向かい始めた。2人の決戦が始まる。

 

この本のハイライトの1つは、チャップリンの映画『独裁者』(1940年公開)の、映画史に残る名場面であるラストの演説シーンの舞台裏にある。喜劇王であるチャップリンが、仲間からの批判や、国レベルの妨害に遭いながらも、命を懸けるほどの想いでこの反戦映画を作り上げたことが明かされていく。

 

ナチ党が最も大事にしていたのはイメージ戦略だった。ナショナリズムと人種差別まみれのヒトラーの演説を、当時は新しかった「映画」というメディアを使って流すことで、ナチスを率いるヒトラーの絶対的な権威と権力を民衆の脳内に植え付けていた。ところが、そんなナチスの努力を、チャップリンは笑いを用いて水の泡にしてしまう。ヒトラーと同じ髭を生やしたチャップリンが、同じメディアである映画の中で、滑稽な権力者に扮し、それを民衆があざ笑うというコメディを届けたのだ。民衆には大ウケし世界中で爆発的な人気を得るが、同時にチャップリンには国レベルでの妨害や圧力がかかるようになる。しかし彼はそれを時にセンス良く交わし、時に真っ向から挑んでいく。

 

チャップリンとヒトラーの最終対決となった映画『独裁者』は、ラストシーンがなかなか決まらず、長いこと未完成の状態が続いていたという。それまでの考案メモやノートは1000枚を超えたものが見つかっているらしいが、実際のシーンは、それらの資料のどれにも一致していないそうなのだ。ドイツがフランスを征服したあの日、ヒトラーの暴走を止めなくてはいけないという思いがチャップリンを突き動かしたのだろうか。その翌日からたった1人スタジオにこもり、全人類の魂に呼びかけるようなあの演説シーンが誕生することになる。

 

ちなみに、映画『独裁者』を観た事がない人も本書は問題なく楽しめる。読後に観賞するのも良し、または途中で我慢ならずにラストシーンだけでも観てしまいたくなるかも知れない。楽しみ方は自由だ。

 

私の記憶の中のチャップリンといえば、気が弱く、しかし心から優しく、いつもおかしな動きをしながらお道化けていた。だがその内情は権力や独裁を許さない人間で、それを笑いに変えて愛と平和をテーマにしたコメディを世界中に届けるために、煮えたぎるほどの激情を抱いて闘っていたことを本書で知った。

 

さて、ついに完成した『独裁者』を世界はどのように受け入れていったのだろうか。ドイツと同盟国だった日本では上映されたのか。そして、最も肝心な問いは「ヒトラーはこの映画を見たのか?」だ。驚愕の展開は本書をぜひ読んで欲しい。

 

世界大戦は終結し、時代は変わった。戦争は間違っていた、戦争は誰にも幸せをもたらせないのだと、世界中の多くの人間がもうとっくに気づいているだろう。2022年、今なお戦争という武器を用いて権威を振りかざしている一国の大統領に、かつてチャップリンが笑いに変えていた滑稽な独裁者が重なる。

 

『チャップリンとヒトラー』岩波書店
大野裕之/著

この記事を書いた人

白川優子

-shirakawa-yuko-

国境なき医師団看護師

国境なき医師団看護師。2010年より紛争地を中心に9ヶ国17回の活動。幼少のころから読書で育つ。 『紛争地の看護師』(小学館)著者。集英社刊行イミダスにて2018年より連載中。 また朝日新聞デジタル&にて2020年10月より連載開始。現在は国境なき医師団日本事務局にて海外派遣スタッフの採用を行っている。

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