2022/04/07
馬場紀衣 文筆家・ライター
『ちぐはぐな身体 ファッションってなに?』ちくま文庫
鷲田清一/著
クローゼットを開く瞬間はいつも気分が弾む。新しいデザインからヴィンテージものまで、今日はなにを着ようかと迷うのが楽しい。人は一日のほとんどを布にくるまれて生活しているけれど、服を着るという行為には、単に身体に布をまいている以上の意味がある。
本書は、デザイナーの役割、理想的な身体のモード(様態)の追求、タトゥーやピアスといった身体の表面加工など、ファッションという切り口から「身体論」を分かりやすく説いた一冊。コムデギャルソン、ヨウジヤマモト、イッセイ・ミヤケなど日本を代表するデザイナーのほか、建築家やアーティストらが取り上げられる。
「飾ったり、突っぱったり、ひねくれたり、ふてくされたり……。ファッションはいつも愉しいが、ときどき、それが涙に見えることがある。」
たとえば、グランジ(薄汚れた)とかシャビイ(みすぼらしい)と呼ばれるファッションスタイルのなかには、わざと縫い代を外に出して裏地を露出させたり、裏向きになっているようにみせたり、端をほつれさせたりするものがある。この種の服は、あえて粗雑な縫い目にして端をほつれさせることで、裏向きに見えるように意図的にデザインされている。コムデギャルソンは95年の春夏コレクションで背広を一着、エプロンのように身体の前にぶら下げた服を披露した。著者はこれらを「服の外に身体を置くファッション」と表現する。「みすぼらしさ」をオシャレに着こなすのは難しそうだが、こうした服を生みだすデザイナーたちの身体感覚の鋭さには驚かされる。
「ぼくらにとって、たとえば身体の内部、内臓や骨髄というのははたして内部なのだろうか外部なのだろうか(じぶんの内臓などだれも見たことがないし、それがさらけだされるとその異様な色かたちに眼を背ける)。皮膚と衣服のあいだのあの隙間というのはぼくの内部なのだろうか外部なのだろうか(他人に服のなかに手を入れられると、ぞくっとする)……。身体が、ぼくらの存在の一部であると同時にぼくらにとって外部的な対象でもあるように、服もまた、ぼくらの表面であると同時にその外部であるとも言える。」
そもそも衣服や靴というのは、あるがままの人間の身体を無視した構造になっている。19世紀ヨーロッパで流行したコルセットや、ハイヒールのなかで圧迫された指を思い出してほしい。身体に張りつくファッションというのは、(着る人にとって)楽なデザインではない。衣服や靴は身体に合わせて作られるものではないということ、つまり「服飾とは、身体に合わせてモデルを作る行為なのではなく、むしろモデルに身体を合わせる行為なのでは」という著者の考えは、ダイエットや筋トレといったボディデザインの思想とも結びついていて興味深い。
『ちぐはぐな身体 ファッションってなに?』ちくま文庫
鷲田清一/著