2022/06/13
藤代冥砂 写真家・作家
『「現代写真」の系譜 写真家たちの肉声から辿る』光文社新書
圓井 義典/著
写真ってなんだろう?
自分がそれを生業にしておきながら、こういう問いに向かい合う機会は少なかった。敢えて避けてきたのかもしれない。
その問いの足元にはマントルまで達するような深い穴が空いていて、その深さからの絶望を、願わくば味合うことなくやり過ごそうとしてきたのだと思う。もしくは、それがどんな穴であれ、触れずに済ませても、どうってことないと軽んじてきたのかもしれない。おそらくその両方を抱きながら、写真ってなんだろう? から距離をとって現在に至っているというのは本当のことだ。
本書、「現代写真の系譜」は、その問いに対して、写真の歴史や美術史を混じえつつ、日本を代表する写真家の有様も当然通しつつ、さくっと概観してくれている。このさくっとした感じがとても良かった。
著者があとがきで述べているように、本書は、これから写真を始めようとする人たちに向けられている面もあって、確かに写真の文脈を知る上では、入門書としての役割を十二分に果たしていると思うし、私のような写真に三十年も付き合ってきたけどあまり深く関わった実感のない隠れ初心者にも、しっかりと読み込める内容だ。
写真の文脈を知ること。それは写真に限ったことではなくて、全ての分野において有意義に違いなく、なぜなら、それはルールブックを開くことと同義だからだ。
美術館やギャラリーに行き、そこにある作品に向かい合う時に、はて、これはどう見ればいいのだろう? という問いをもつことは誰にでもあると思う。そういった時には、その読み解き方を知っておく必要があって、文脈を知るということは、受け手と作り手の双方にとっての接点を持つということに他ならない。
本書は、スマホの拡散によって誰もが写真の作り手というポジションを手にしている現在にあって、文脈はどこまでの層に必要なのかという問いを生みつつも、なお必要とするであろう未来があることの確実さをも感じさせてくれた。
確かに文脈を知らなくても写真を撮って加工し、あるコミュニティーで流通させることは可能だし、それは写真関係のものとして大きな層だと思うし、今後も動画と相まって増殖するだろう。
それに対して、写真が生まれた時から、それを芸術として扱い、絵画など旧来のジャンルに対して二流扱いされていた写真表現を、比較的最近では現代美術と交差させつつ、その地位を高めてきた写真家たちの切実な実績の軌跡を継ぐ者たちも、絶えはしないだろう。そして、この分野での写真には、やはりルールブックとしての文脈が求められ続けるのだろう。
アラーキーは、自分が写真と呼んできたものは、もう終わったのかもしれない、とデジタル写真の台頭時につぶやいた。そして、それは悪いことじゃないとも言った。
それは写真そのものがそれ自体の力で、自然と変化し、淘汰されたというわけでなく、メディア形態や、人々の生活スタイルから促された受動的なことでもあるし、もともとカメラという機械と感光剤という薬品から生まれるという写真の性質上、絵画などに比べると、時代とテクノロジーの変化に巻き込まれやすい面がもともとあったのだと思う。
私個人の感想だと、写真界というサロンめいた芸術密室から、いきなりスマホという通路を遠って、写真は外界へと晒されてしまったような感がある。神話から民話へとなったようなその感じは、私にとっては爽快だ。そこで滅びるものはそうでいいし、残るものは残ればいい。
本書を読み終えて思うのは、そういった単純なことであった。スマホでしか写真に接しない層が、本書をもし読んだら、それはそれで何かが起こるかもしれないし、まじめに写真表現をしている人が、本書によって、文脈とか面倒臭いな、と気づくこともあるだろう。どちらにしても、こういう写真の在り方があるということを知らしめる上で、つまり晒すことは、結局写真にとって意味があると思う。
『「現代写真」の系譜 写真家たちの肉声から辿る』光文社新書
圓井 義典 /著