2018/10/10
鈴木涼美 作家
『声めぐり』晶文社
齋藤陽道/著
小さい頃、読書が苦手だった。小さい頃といっても中学の途中くらいまでは自分から好き好んで本を読むタイプではなかった。私の母は児童文学や絵本の研究者だったから、自宅の書庫にはありとあらゆる国の絵本、様々な時代の子供向け文学が詰まっていて、それを母親の読み聞かせで、あるいは一緒に絵本のページを繰りながら寝る前の時間を過ごす、というのがおそらく最初の読書体験ではある。母は文字の羅列から奥行きのある生き生きとした映像を浮かび上がらせて本を読むタイプだったのだと思う。ただ、私はどんなに母がそのような間合い、そのような情感を込めて本を読んでくれても、風の又三郎の顔も、メアリーが見つける秘密の花園も、映像として私の頭には浮かび上がってこなかった。
聴覚に障害のある写真家、齋藤陽道は、補聴器をつけ、発音レッスンに通うことから世界との対話の練習を始めることとなった。しかし補聴器から聞こえるノイズや同級生の口元から読み取る発音は、声として彼の耳に届くことがなかったのだという。しかし、中学に上がるタイミングでろう学校に入り、手話を獲得することで、彼は世界から声が聞こえるようになった。聞いたり、読んだり、見たり、嗅いだりすることで世界を受け取ることは、そこでようやく世界と対話が始まるということだ。表現というのは自分の中にあるものを形にして世界に示すことのように思えるが、実際は世界から受け取ったものに対して自分が答えることなのだろうと思う。世界との対話の方法を得ることが、表現者として歩み出す用意となる。
彼の「失われた声をふたたびめぐるための旅」を通して、本を読むということをめぐる自分自身の体験を見つめ直した。私は今でも本を読むときに、リアルな映像が脳内に立ち上がるようなタイプではない。私にとって本は文章の積み重ねであり、文章が説明する光景や動きよりも、その一文自体の形や動きの方が重要で、そのことをなんとなく体得してから、読書が飛躍的に好きになった。確か村上龍の「コインロッカーベイビーズ」を読んでいるころになんとなくそんなことに気づいて、そのあと、山田詠美の「ジェシーの背骨」、村上春樹の「風の歌を聞け」と読むうちに、なかなかうまくいかなかった世界を読むという行為が自分なりにできるようになった。私にとって、世界を受け取り、またその世界と対話する用意が始まった瞬間でもある。
齋藤の声をめぐる記憶のいくつか、また聞くという行為を獲得する過程の物語は、当然、そのまま写真家としての彼の原点や写真の捉え方についての記録でもある。彼の写真観は私にとって新鮮で、特に「写真に写る「男の子」は歴然としたドッペルゲンガーであり、永遠の他者である」「「記憶を思い出す」ということは、「過去のぼく」という他者との語らいなのだろう」という一文には多く気付かされた。彼は私たちが視覚をもって認知すると思いがちな写真を表現の主戦場としながら、世界を声として受け取る。
最初から世界との対話がスムーズな者は案外、表現に固執しないのかもしれない、とも思った。世界を聞いたり読んだりすることに格闘したぶんだけ、対話はせわしなくなる。聞くという行為において幼少期の不器用な失敗経験、聞こえるということが難儀だった写真家は、おそらく今も世界との対話に忙しい。
『声めぐり』晶文社
齋藤陽道/著