2022/07/25
馬場紀衣 文筆家・ライター
『生命の〈系統樹〉はからみあう ゲノムに刻まれたまったく新しい進化史』作品社
David Quammen/原著, デイヴィッド クォメン/著, 的場 知之/翻訳
原題を直訳すると「からみあう樹」。著者のデイヴィッド・クォメンは、アメリカを代表する科学ジャーナリストだ。科学や自然史に関する数多くの著作をもつ彼が本書で取り上げるのは「地球上のすべての生命のあいだの類縁関係を樹として描き出そうとする、2世紀ちかくにわたる科学者たちの試行錯誤の歴史」である。
お馴染みのダーウィンの進化論をはじめ、分子配列の情報から生命の歴史を読み解こうとしたカール・ウーズ、「真核生物の起源は細胞内共生にある」という画期的な説を唱えたリン・マーギュリス。生命進化における革命的な大発見をした数々の研究者たちとその業績が次々と紹介される。
たとえばフランシス・クリックは進化の歴史を長い分子という証拠から読み解こうとした人物である。クリックが生涯で成し遂げたもっとも有名な偉業は、おそらく1953年に米国人のジェームズ・ワトソンと共にDNAの分子構造を解明したことだろう。1962年には、モーリス・ウィルキンスと共にノーベル賞を受賞している。よく知られているように、遺伝子のコードはDNAの二重らせんの構成要素、つまり化学用語でいうところのヌクレオチド塩基である4文字のアルファベット(ACGT)で書かれている。
この二重らせんを成す2本の鎖は、中心軸に沿うようにして、互いに平行により合わさっており、AはTと、CはGとペアになって、らせん階段のような安定的な構造を作っているわけだが、これこそがワトソンとクリックが推定した配置なのだ。DNAは遺伝的形象のためにデータを貯蔵し、物質をコピーし、肉体を持った生命へと繋げていく。それはどんなステップを踏んで実行されるのか、コードの問題はクリックらをすっかり虜にしていった。
本書には、日本の研究者も登場する。ゲノム解読が進むにつれて、細菌の活動と遺伝子の流れに関する新知見が注目されるようになっていくわけだが、その過程で細菌学者の渡邊力は、複数の抗生物質への抵抗性が細菌のあいだで水平伝播していたという新たな発見に警鐘を鳴らした。
「遺伝子の水平伝播」は人命にかかわる大問題だ。1928年に発見されたペニシリンは、1942年に臨床利用が開始された。当初はブドウ球菌に対する強力な武器になり得たが、1972年には世界中で大問題を引き起こすこととなる。世界では未だに70万人以上もの人が耐性細菌感染症で死亡しているのだ。1940年代から50年代、日本でも世界でも各種抗生物質への抵抗性が相次いでさまざまな細菌に出現するという事態が起こったのも、もちろん偶然ではない。
「この世界には細菌に耐性獲得か死かを迫る、とてつもない進化的圧力が存在する。しかし、こうした情勢のなかでもっとも驚くべきは、薬剤耐性の拡散のすさまじいスピードと、多剤耐性細菌、つまり1種の抗生物質だけでなくさまざまな種類の抗生物質に抵抗性を示す細菌の種類の多さだ。」
人の眼では見ることの叶わないゲノムを読み解くという分子系統学は、生命史観を揺るがす大きな物語だ。20世紀半ばの細菌分類学者たちがさじを投げていた原核生物のなかの、それ以上の区分へと立ち入り、人間たちを自然界の新たな領域へと導くことになったのだから。「生命の樹」は単純に分岐を繰りかえしてきたわけではなく、それどころか、どこでどのように絡んでいるのかについては、まだまだ不明瞭な状態にある。生命進化のまったく新しい歴史が綴られた本書は、知られざる私たちの細胞やゲノムについてのアイデアがふんだんに詰められた一冊となっている。
『生命の〈系統樹〉はからみあう ゲノムに刻まれたまったく新しい進化史』作品社
David Quammen/原著, デイヴィッド クォメン/著, 的場 知之/翻訳