2022/08/02
坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長
『映画を早送りで観る人たち』光文社
稲田豊史/著
私は動画をほとんど観ない人間である。テレビは大学生の頃から20年近く、ほとんど観ていない。YouTubeも観ない。ネットフリックスにもAmazonプライムにも入っていない。映画館にも行かないし、DVDもレンタルしない。自分や知り合いがテレビに出た時は観る時もあるが、自分がYouTubeの動画に出たときは、恥ずかしくて観ないことも多い。
一方、私の妻は、大量の動画を早送りで観る人である。毎日のように推しのアイドルグループの出ているテレビ番組を録画して、夜な夜な倍速視聴している。空き時間には、スマホで推しの動画を延々と観ている。そしてドラマを観るときには、いきなり最終回の結末をググる。
動画を見るという習慣自体がない私にとって、妻の行動は謎に満ちたものであったが、本書『映画を早送りで観る人たち』を読んで、疑問が氷解した。
著者によれば、倍速視聴が習慣化している人たちが行っているのは、「作品の鑑賞」ではなく、「コンテンツの消費」である。
情報過多とストレス過多の社会の中で、「自分の好きなものだけを観たい」「観たい展開だけを観たい」「感情と時間を節約したい」と考える人が増加している。こうした価値観から生み出された映像視聴の快適主義が、倍速視聴の背景にあるという。
特に時間とお金に限りがある若い世代においては、映画・アニメ・ドラマは、仲間内でのコミュニケーションを円滑にするため、あるいは自らの個性を確立・発信するためのツールとして機能しているので、コスパ(コスト・パフォーマンス)を重視しながら、倍速視聴でコンテンツを大量消費せざるをえない、という事情もある。
文化や芸術の鑑賞にコスパを持ち込むのは、最も無粋な行為だ。「文化のぶち壊し」「芸術への冒涜」と言ってもいい。ただ、それらがブランディングされた「作品」ではなく、スーパーで売っている野菜やお菓子のようなコモディティ=「日用品」なのであれば、コスパに基づいて大量消費されるのは、ごく自然なことである。
しかし、動画を全く観ない人間の立場から言わせていただくと、そもそも動画や映像という媒体自体が、圧倒的にコスパが悪い。
私が動画を観ない理由は二つある。一つは、「情報量が少なすぎるから」だ。活字で読めば5分でわかることであっても、動画で説明すると30分から1時間以上かかってしまう。倍速視聴したとしても、コスパが悪すぎる。
そして、もう一つの理由は、「最も情報量が多いのは、現実そのものであるから」だ。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、社会人になり、現実と格闘している中で、小説や映画などのフィクションをほとんど読まなく(読めなく)なってしまった。
私も思春期の頃は「人間の価値は、小説・音楽・映画の趣味によって決まる」と信じていたサブカル少年だったので、大量のコンテンツを視聴することで何者かになりたい、という人の気持ちは、痛いほどわかる。しかし、倍速視聴したフィクションの組み合わせで作った個性など、たかが知れている。
個性を確立するために必要なのは、既成の情報をただやみくもに食べ続ける「情報消費者」ではなく、自らの手足を動かして、オリジナルの情報を作り出す「情報生産者」になることである。
そして、情報生産者になるためには、10年単位の時間がかかる。私が20代の頃も、「成果主義」「ITベンチャー」「史上最年少での上場」「プチリタイヤ」といった言葉がメディアに溢れ、若くして最短の時間、最短の距離で結果を出すことがもてはやされていた。
ただ、昔も今も変わらない真理は、「人が社会の中で評価されるには、長い長い時間がかかる」ということだ。この過程は、残念ながら早送りできない。
否応なしに倍速視聴が習慣化していく社会の中で、私たちが心に留めておくべきことは、以下の一文に集約できるだろう。
「おお神よ、早送りすべきものを早送りする勇気を、早送りできないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を、われに与えたまえ!」
『映画を早送りで観る人たち』光文社
稲田豊史/著