人はなぜ宗教を求めてしまうのか? そして、人はなぜ生きるのか?

藤代冥砂 写真家・作家

『世界は宗教で動いている』光文社新書
橋爪大二郎/著

 

世界が宗教で動いている、ということは、誰もがなんとなく分かっていることだと思う。
歴史の教科書に載っているような宗教間の争い、現代史の様々な局面で取り沙汰される宗教の影などから、それは周知の事実として認知されているように思う。

 

とはいえ、宗教の影響力や分布図を、俯瞰的に把握している人は、一般的に少数派ではないか。特に日本においては、宗教への伝統的ともいえる距離と置き方のせいもあって、むしろアンタッチャブルなものとしておくのが処世術的にもよしとされているようだ。

 

その態度は、国内においてはそれで構わないと思う。ガラパゴス化した宗教観と付き合い方とまでは言い過ぎかもしれないが、それはそれでバランスが取れている。

 

ただ、国外へと視点と活動を広げるならば、コミュニケーションの能力を支えるのは、やはり相手文化の理解度であり、この文化の中の重要なパーツとなる宗教を理解しておくのは、大きなアドバンテージがあるのは、ここ最近に起こった認識ではなくて、むしろ古代から面々と続いている要素の一つでもある。

 

例えば、一神教を信じているアメリカ人からしてみたら、全ての物に神が宿っているという神道的な感覚が世代を超えて身に沁みている日本人は、興味や憧れはあっても、心の底から理解するのは難しいだろうし、逆も然りで、最後の審判を待つという姿勢は、日本人にはピンとこないだろう。

 

そして、宗教がもたらす感覚は、教会や神社にいる時のみの限定的なものではなくて、むしろ日常の全てに影響を持っていることからしても、宗教が表と裏から人々を支配しているとも言える。

 

本書「世界は宗教で動いている」は、世界中の主な宗教の概要を伝えるだけでなく、それが現代人にどのような影響を及ぼし、政治や経済へ及んでいるかまでをダイアローグという平易な形式で解説してくれている。

 

他人を知ることは、自分を知ることになる、とはよく言われるが、他人が、多文化の人が、何を信じ何に影響され行動しているか、宗教をバックボーンとしてどんな精神文化を持っているかを知ることによって、それのネガとしての自分の現在地が明確になる。

 

自分と他者の両方を知ることは、うまくいけば寛容さを生む。つまり争いが減るということに繋がる。無知が恐怖を生みがちなのは、歴史を持ち出すまでもなく、個人的な体験として十分に知られている。

 

もちろん、ある宗教下にある人々の精神構造を知った上でも、なお残る壁というものはあるので、争いが一掃されることは無いだろう。だが、どこにどんな壁がどこにあるのかを知っておけば、極力避けることはできる。それは長年連れ添ってきた夫婦の在り方に通じる。

 

「世界は宗教で動いている」を読み終えると、視界が少しだけ開けた気になるのは、とても心地よいことで、学ぶことの楽しさとは、本来人をこのように人を明るくするものだと再確認した。そして、学ぶことは、新たな疑問を生む。

 
 人はなぜ宗教で動き続けるのか?
 人はなぜ宗教を求めてしまうのか?

 素朴な疑問は、他の素朴な疑問と通底する。

 人はなぜ生きるのか?

 

いずれ解けるかもしれない疑問については、それを考え抜くという作業の他に、それを一旦飲み込んで生きてしまうという態度も必要なのだろう。

 

『世界は宗教で動いてる』光文社新書
橋爪大二郎/著

この記事を書いた人

藤代冥砂

-fujishiro-meisa-

写真家・作家

90年代から写真家としてのキャリアをスタートさせ、以後エディトリアル、コマーシャル、アートの分野を中心として活動。主な写真集として、2年間のバックパッカー時代の世界一周旅行記『ライドライドライド』、家族との日常を綴った愛しさと切なさに満ちた『もう家に帰ろう』、南米女性を現地で30人撮り下ろした太陽の輝きを感じさせる『肉』、沖縄の神々しい光と色をスピリチュアルに切り取った『あおあお』、高層ホテルの一室にヌードで佇む女性52人を撮った都市論的な,試みでもある『sketches of tokyo』、山岳写真とヌードを対比させる構成が新奇な『山と肌』など、一昨ごとに変わる表現法をスタイルとし、それによって写真を超えていこうとする試みは、アンチスタイルな全体写真家としてユニークな位置にいる。また小説家としても知られ著作に『誰も死なない恋愛小説』『ドライブ』がある。第34回講談社出版文化賞写真賞受賞

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