2023/02/01
藤代冥砂 写真家・作家
『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』光文社未来ライブラリー
ジェームズ・ブラッドワース/著 濱野大道/訳
旅をしていると、地域ごとの差異に驚く機会は減り、むしろ均一化する世界をため息混じりに実感することが多くなった。
日本の国土はまだ南北に長く、北海道と沖縄が象徴するような差異の確かさが、まだある方だと言えるが、それも最北と最南の土地を例に挙げなければ、宮城と宮崎、群馬と岐阜の違いは、そこまで高コントラストを映さずに、駅前や国道沿いに並ぶチェーン店やサービス店は、どれも同じであり、土産物さえも似たようなスイーツや民芸が並び、私たちは懸命に「ここにしかないもの」を心の温度を高めて探す。そしてここにわざわざやってきたことの意味を見つけようと躍起になることを旅の感動とすり替えていることが多い。
外国に行っても、その差異の乏しさは基本的に変わらない。言語や文化がすり替わってはいるが、人というのは、流行りの店を探して懸命に予約を入れ、懸命に前列のチケットを取り、懸命に楽しさを得ようと努力することに変わりない。たとえナポリのピッツァが世界一美味くても、それを100とするなら、75点くらいのピッツァなら家から一時間半径にひとつくらいはあるはずだ。
それでも、人は衣食住に何かしら通常運転とは違う差異を求めて限りある人生の時間を費やし続ける。それは資本主義の世界に生きる者にとって、スタンダードであり、欲望とはこの経済世界では差異を手に入れる終わりのない旅である。
だが、皮肉なことに、あるレベル以上の経済力を持つ者たちの差異への欲望を便利に効率よく満たすためには、アマゾンの倉庫、訪問介護業者、コールセンター、ウーバーなどで、均質的な単純過酷な労働を、非人道的な厳重な管理のもとで、おまけに低賃金で働く層が裏から支えているという事実がある。
本書は、それらの過酷な労働事情を、著者自ら前記の複数の会社に潜入し、体験した様々なことを伝えている貴重なルポだ。
それらは前時代の炭坑夫のようであり、ひとにぎりの富裕層に対する貧困層の現状を余すところなく、リアルに伝えていることに成功しているだけでなく、差異への志向を支えているのは、均質化された単純労働に一日の、もしくは一生のほとんどを捧げる人間たちの分厚い層があってこそという矛盾を露出させている。
アイフォンのコードが当日のうちに配達されるには、アマゾンの倉庫で、トイレに行くだけでサボっているとみなされてポイントを失い、倉庫内を1日16キロも懸命に歩く人々が本書の舞台であるイギリスにいることを、どれだけの人が知っているだろう?
低賃金のために、一件の訪問介護を20分以内に済ませて、コマを稼がなくてはいけない大変な仕事をしている人たちがいることを私は知らなかったし、コールセンターの退屈な仕事が蝕む精神について、ウエストエンドに集まって必死に狂いそうになりながら乗客を探すウーバードライバーも知らなかった。
誰かがいい思いをすれば、誰かが悪い思いをしているというのは、きっと今の時代に始まったことではないだろう。うまくやっている人は、うまくいっていない人が同時にいるというカラクリを現実世界の当然の面として考えているかもしれない。能力至上の世界は、資本主義の搾取と被搾取の自明の真理である、と。
だが、本書を読み終えると、一抹の不安と疑問の霧に包まれるはずだ。こんな世界がいつまで続くのだろうか、と。
いつかは地球上から搾取される低賃金労働者が消失すると言われている。そう遠くない未来に発展途上国がなくなるからだと言う学者もいる。
この世界は、周囲よりも秀でることを常に目指す出走したくもないレースにエントリーさせられる世界だ。比較の価値観に縛られた世界。よりいい家、よりいい車、よりいい教育、よりいい食事、すべて自己完結ではなく、比較の上の靄のような価値観だ。
もし自由に何らかの意味があるとすれば、それは「拡大しつつある消費者階級が別の階級に命令する自由」ではなく、「誰もが人並みの生活をする自由」であるべきだ、と
著者は本書の終盤に述べている。このメッセージも新しいものではない。抑圧が刷り込み済みの世界では、ずっと前から人々の多くはそう願ってきた。だが、いまだに現状は動いていない。
いったいこの世界の矛盾を前にして、私たちは何ができるだろう。この答えがないような問いを、自分へと向ける機会として、本書は機能していると思う。この機会の重なりが、人を新しいより良き世界へと進ませると信じることは難しいのだが。
『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』光文社未来ライブラリー
ジェームズ・ブラッドワース/著 濱野大道/訳