外メシの醍醐味は、隣のテーブルの会話の盗み聞きかもしれない『天国飯と地獄耳』

小野美由紀 作家

『天国飯と地獄耳』キノブックス
岡田育/著

 

窃視症、という言葉はあるが窃聴症、という言葉はない。どうしてだろう。
目で見るという行為に対し、耳で聞く、という行為は受動的だからだろうか?

 

しかし社会の中で暮らしている以上、我々はどうしたって他人の行いが気になってしまう生き物である。
カフェで、電車の中で、居酒屋で、隣の会話に耳を傾けたことのない人間がこの世にいるだろうか?
私はスマホを持っていないので、電車の中ではもっぱら本を読んでいるか、考え事をしているか、近くの他人の会話に耳を傾けているかのどれかである。たとえ悪趣味だと言われても、自分とは全く別の世界で全く別の人生を歩んできた、決して交わることのない人々の生活世界をほんのつかの間、覗けるような気がして私は好きだ。

 

そんな快楽を、そしてそこから汲み取れる「人生観」までをもひっくるめ、冷静な分析眼とコミカルな描写力により読み応えある作品に仕上げたのが、岡田育さんの『天国飯と地獄耳』だ。

 

東京の鰻屋、ノマドカフェ、桝席、京風スイーツ店……で盗み聞く、リッチな主婦の本音、婚活女子たちの友情戦略、芸能事務所の「ギョーカイ人」たちのぼやき、ニューヨークに越されてからの、レストランでの、バーでの、ベーカリーでの、美味しい食事に舌鼓を打ちながらの盗み聞き。会話の内容によっては、食事がまずくなる事もしばしば……だが、さすがニューヨークだけあり、登場する人物たちのパワフルさも多様さも別格。岡田さんの耳に飛び込んで来る会話も、予想のはるかナナメゆく奇想天外なシロモノばかり。東京という街が小さく思えてしまうほどのトンデモな会話だらけなのだ。

 

周囲の人々の迷惑を顧みず撮影しまくるインスタグラマーのエピソードには、「いるいる、こういう人」と頷き、どんなレストランでも望み通りのサービスを要求する、NY暮らしウン10年(予想)の頑固なジジイとババアには呆れ、魚介専門レストランでもヴィーガン(動物性タンパク質一切抜き)の料理を要求するスーパーロハスピープルには「本当にそんなやつ、いる?」と思わず突っ込む。就職難を嘆くアジア系の若者たちのぼやきには「どっこの都市も同じだなあ」としみじみし、ネイルサロンで施術中に突然持ち込みワインで晩酌を始めるパワー系女子2人は、憤慨するより先に一周回って「ポカーン」としてしまう。
なんだか岡田さんと二人、レストランに並んで聞き耳を立てているみたいだ。

 

ただの会話の断片の寄せ集めではなく、その内容からそこに暮らす人々の生き様、社会のトレンド、恋とは、結婚とは、常識とは「人生とは」にまで思いを馳せ、とびきり美味しいエッセイに仕立てるのが岡田流。

 

蕎麦屋で「蕎麦湯」を出してもらえない白人のおじいちゃんの寂しげな表情から思わずニーチェを引用してしまう、彼女のなんとまあ、想像力の豊かなこと!
登場する飲食店やご飯も、どれも美味しそう。グルメエッセイのように料理の描写がメインではないけれど、臨場感溢れる書きぶりに、人々のざわめきや料理の温度、ケレン味つよい人々の集まる下町の、ヒップなレストランの風景が目の前に広がるよう。

 

ちなみに、著者の岡田育さんとは昨年ニューヨークのレストランでお会いしたが、平日の昼下がりだったためか人気はなく、ランチはとびきり美味しかったが盗み聞きの旨味にはありつけなかった。岡田さんがいくつも候補に提示してくれたユニオンスクエア周辺のレストランには、気のおけない庶民の胃袋的な下町ビストロも含まれていたが、もしもそちらを選んでいたら、岡田さんと二人、他人の人生に耳をそばだてる快楽に身を投じられただろうか。

 

しかしその後に連れて行ってもらったニューヨークでも有名な古書店「ストランドブックストア」では、ぎっしりと立ち並ぶ本棚の間、黴くさい古紙の匂いに囲まれながらうんちくを垂れる古書マニアたちの会話にしっかりと耳を澄ませることができた。

 

一冊一冊引き出しながら、「この作者は、こう」「この作品はこう」と熱心に解説を加えるウェリントンメガネにウェービーヘアの、少々時代に取り残された風ヒッピー・スタイルの男性、その隣で講釈を聞くガールフレンドと思しき女性は苦笑いしながらスマホをぽちぽち。
彼はせっかくの解説が聞き流されていることも、それをまさか背後のジャパニーズがしっかりキャッチしているとは思いもしないだろうな。

 

東京でもニューヨークでも、マニアというものは常に夢中で熱弁を振るうものであるなあ、周囲を気にもせず没頭できるほど好きなジャンルがあるというのは良きことよなあ、私にもそんなものがあればいいのに、と勝手な羨ましさを感じたのだった。

 

異国の地での盗み聞きは、日本でのそれよりもひときわ「決して交わらない感」が強く、それゆえにサプライズとパラダイム・シフトの衝撃が強く、ひときわワクワクする。
その快楽と美味しい食事を、かの街で毎日のように享受している、岡田さんに思わず嫉妬。

 

『天国飯と地獄耳』キノブックス
岡田育/著

この記事を書いた人

小野美由紀

-ono-miyuki-

作家

1985年東京都生まれ。慶應大学文学部仏文学専攻卒業。学生時代、留学、世界一周に旅立ち22カ国を巡る。卒業後、無職の期間を経て13年春からWebや雑誌を中心にフリーライターとして活動開始。徐々にコラムやエッセイに執筆の域を広げる。著書に、絵本『ひかりのりゅう』(絵本塾出版)、エッセイ『傷口から人生。~メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』(幻冬舎)、『人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み・食べ・歩く800キロの旅』(光文社)。2018年、初の長編小説で銭湯を舞台にした青春群像劇『メゾン刻の湯』がポプラ社より発売。月に1回、創作文章ワークショップ「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」を開催している。


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