2018/10/09
長江貴士 元書店員
『無限論の教室』講談社
野矢茂樹/著
僕が数学で最も好きな証明は、「カントールの対角線論法」だ。これは「無限」という数学的対象に関わる証明で、この話から始めたいのだが、その前にまず、数学における「証明」というものについて書いてみよう。
かつて、竹内薫の「99.9%は仮説」という本が大ベストセラーとなった。この本で主張していることをざっくり要約すると、「物理学で“証明されたこと”は、結局仮説に過ぎない」ということだ。物理学にも様々なアプローチがあるが、基本的には、「現実の現象を捉える」→「その現象を説明する理論を考える」→「その理論が予測する現象を捉える」という形で理論が“証明”されていく。しかし、物理学では“証明されたこと”は時代とともにどんどんと覆っていく。有名なのはニュートンとアインシュタインだろう。300年間その正しさが信じられていたニュートンの物理学は、アインシュタインが相対性理論を発表したことで間違っていた(というか、正確ではなかった)ことが分かった。物理学では、“証明”というのは、「現時点では正しい」という以上の意味はなく、新たな事実によっていつでも更新されてしまうものだ。
しかし、数学における“証明”は違う。数学的に“証明される”ということは、その後100%どんなことがあっても覆ることがない、ということを意味しているのだ。数学というのは、「大前提を決める(公理)」→「公理を組み合わせて、絶対に正しいことを導き出す(定理)」→「定理を積み上げることによって、さらに正しい主張を発見していく」というような形で進んでいく(「公理が間違っている」という可能性はあり得るのだが、それはここでは触れない)。数学は、過去正しいと証明されたことを組み合わせて“証明”をしていくため、過去の“証明”に間違いがあると、それに立脚した“証明”もすべて間違っていることになってしまう。だから、「1点の曇りもなく100%正しい」と言えるまで“証明”が認められることはない。最先端の数学分野では、“証明”のチェックに数年掛かることもざらであり、「数学的な正しさ」という基準に則って、皆で絶対的な正しさを追い求めるのだ。
さて、そんな“証明”の違いに触れたところで、「カントールの対角線論法」の話である。これは、それまで数学者たちが、「扱うことは出来ないもの」として手を触れずにいた無限という領域を初めて体系的に研究したカントールが生み出した証明の技法であり、図も含めて説明すれば、文系の人でも頑張れば理解できるものだ(実際、何人かに説明し、理解してもらったことがある)。しかしここでは証明の詳細には触れない。ここでは、「カントールの対角線論法」によってカントールがどんな主張をしたかを書こう。
まず、「整数」と「偶数」について考えよう。ちょっと想像してみて欲しい。「整数」と「偶数」のどちらの方が多い?と問われたら、あなたはどう答えるだろうか?普通に考えれば「整数」の方が多い気がするだろう。1~10までなら、「整数」は10個、「偶数」は5個だ。100まででも、1000まででも、1千兆まででも、状況はほぼ同じだ。
しかし、無限まで、と考える時、状況は変わる。
ここで、「1対1の対応」という考え方を登場させる(これは、本書「無限論の教室」でも重要な考え方なので覚えて欲しい)。これは難しく言うと、「ある集合から取った要素と、別の集合から取った要素が1対1の対応付けができるなら、その集合の大きさ(濃度)は同じ」という考え方だ。よく分からないかもしれないので、先程の「整数」と「偶数」を例にとって説明しよう。
めんどくさいので、「整数」も「偶数」も、0を除いた正の数で考えることにしよう。すると、「整数」の集合は「1,2,3,4,……」となり、「偶数」の集合は「2,4,6,8,…」となる。ここで、「整数」から「1」という要素を取り出し、「偶数」からは「2」という要素を取り出し、対応付けする。その後も同様に、「2」に対して「4」を、「3」に対して「6」を……という風に対応付けをしていく。さてこれを無限まで続けていくとどうなるか?「整数」の集合からある要素「x」を取り出した時、「偶数」の集合には必ずそれに対応する「2x」という要素があることになる。どれほど「x」を大きくしようが、それに対応する「2x」を必ず取り出すことができる。つまり、「整数」の要素と「偶数」の要素は、無限までを考えた場合「1対1の対応」が出来る、ということになる。だから、「整数」と「偶数」の大きさ(濃度)は同じなのだ。
この考え方に納得できない、という人はいるだろうが、その話は後でしよう。とりあえずカントールは、この考え方をベースに、今度は「整数」と「小数」の大きさ(濃度)を比較することにした。そして、対角線論法という手法を駆使することで、「整数」よりも「小数」の大きさ(濃度)の方が大きい、ということを証明してしまったのだ。つまり、「無限」という概念にも、大きさがあったということになる。「整数」も「小数」も、どちらも無限の大きさ(濃度)を持っているのだが、その大きさ(濃度)は違うのだ。これは、カントールが導き出した衝撃的な概念であった。
さて、ようやく本書「無限論の教室」の話に移ろう。僕は本書を読んで衝撃を受けた。何故なら、「カントールの対角線論法」が大好きな僕の目に、こんな文章が飛び込んできたからだ。
『でもね、どうもこの対角線論法というのはうさんくさいのです。集合論の本ならどんな本にも載っている数学の基本的な定理なのですが、私は拒否したい』
えーーーーーー!!!!「私は拒否したい」なんて、そんなこと許されるの????だって、数学の証明は100%完璧で間違いがないんじゃないの????それを「否定」なんて出来るの????
というのが、僕が感じた衝撃だった。ここでいう「私」というのは、著者の野矢茂樹自身ではなく、作中の登場人物である「タジマ先生」のことである。あとがきによれば、この「タジマ先生」にはモデルがいるのだという。
対角線論法を拒否するという衝撃的な主張を含む本書では一体何が描かれているのか。それは、「無限」という数学的対象には、「実無限」と「可能無限」という二つの立場が存在する、ということだ(これはつまり、違う「公理」から考えを展開させている、と考えれば良い)。それまで無限論では、「可能無限」の立場が優勢だったのだが、カントールが現代の無限集合論を作り上げてからは「実無限」の立場が強くなっている、という。しかし「タジマ先生」は、そんな風潮はまかりならんと孤軍奮闘し、「実無限」の代表であるカントールを非難し、「可能無限」の立場から無限をどう捉えるのかを、二人の学生に教える、というストーリー仕立てで展開されていく。
「実無限」と「可能無限」は、「円周率(π)」を使った説明が理解しやすいだろう。「実無限派」は、「πのすべての桁の数字は決まっているのだが、人間がまだ計算できていないだけだ」と考える。つまり、「無限を実体のあるものとして捉える」という立場だ。しかし「可能無限派」は違う。彼らは、「πは、人類が計算できた桁までは存在するが、その先の桁については分からない。しかし、その先の桁も計算できるという可能性は無限である」と考える。つまり、「存在するのは、可能性としての無限だけである」という立場なのだ。
無限なんてものを普段考える機会はないし、考えたところで実生活にはなんのメリットもないのだが、本書は、異なる立場から繰り広げられる高度な議論が読む者をワクワクさせる一冊だ。また、出発点である「公理」が異なれば「数学的な正しさ」にも違いが出てくる、と認識させてくれたという意味でも、印象的な一冊だ。
『無限論の教室』講談社
野矢茂樹/著