発達障害を取り巻く状況は「早期発見早期絶望」
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

報道などで不可解な犯罪などが報道されると、容疑者は発達障害だったとされて、みんなが納得するケースがある。実際に容疑者は発達障害だったのだろうし、報道機関は不可解な状態にレッテル張りをして、大衆に理解を促し安心させる機能を担っているであろうから、職責を果たしているだけとも考えられるのだが、発達障害の子が特別に犯罪性向が強いデータは示されていない。

 

むしろ、たとえば自閉症スペクトラム障害であれば、めちゃくちゃルールを守るのが一般的だろう。ぼくは、目的達成のためだったら、嘘は……つくと却って面倒なことになるのであまりつかないが、都合の悪い情報に言及しないくらいのレトリックは使う。でも、自閉症の子は嘘をつけない。「人に嘘をついてはいけないよ」と教わって納得すると、ずっと嘘をつかないのだ。

 

前にも触れたが、感覚統合などに問題があり、定型発達の子よりずっと世界が混沌として見えているので、ルールにしがみつく傾向があるのである。

 

自閉症の子が、レゴブロックをミリ単位で精密に組み上げるような動画を見たことがないだろうか。健常者の目にはそれが薄気味悪く映るわけだが、あれも不安な世界に秩序を与えたい彼らなりの生活の知恵である。だから、自閉症はむしろ秩序を作る方向性を好み、秩序の逸脱を良しとしない。

 

ただ行間を読む能力を持ち合わせていないので、子どもの頃のぼくのように、

 

「おばあちゃん、顔色いいよね? ね?」と問われて、

 

「そうは見えません。余命はあと3か月だと聞きました」などと答えてしまうのだ。嘘をついてはいけないルールと、人に配慮しなければならない状況を比較考量して、ルールの方を重んじるのである。もちろん、人の気持ちを類推するのが苦手であることも大きな理由だ。

 

だから、自閉症の子がさまざまな困難を抱えているのは間違いないのだが、安易に発達障害や自閉症だから犯罪を行ったのだ、という言説が定式化することには違和感を禁じ得ない。

 

これらの子が犯罪性向を持つとしたら、むしろ発達障害や自閉症そのものではなく、それらに起因して社会とうまく関われず、周囲がその対応にも失敗したので、孤独感や無力感を強烈に味わう、二次障害の結果であることが多い。

 

自閉症は障害であって、治癒する性質のものではない、とはこの連載で繰り返してきたことだが、だからと言って人生を諦める必要はない。

 

日本の自閉症を取り巻く状況は、よく「早期発見早期絶望」と言われる。1歳児検診や3歳児検診の浸透や進歩によって、早い段階で自閉症児を発見できるようにはなったのだが、その症状を抱えて社会とうまく折り合いを付けるための療育があまり機能しておらず、学校などでも厳しく周囲との同質性が問われる社会なので、早めに見つけても絶望するだけで将来のビジョンが見えないというのだ。

 

実際にその通りかもしれないし、私自身もずいぶん嫌な思いをした。社会的包摂を熱心に説く幼稚園が、実は強烈な健常児/自閉症児分離主義だったり(それ自体は否定しない。私もある程度分離した方が、むしろお互いに幸せだろうと考えている。この点はいつか詳細に書こう。ただ、包摂を謳っておきながら、入ってみると手のひらを返すのはずるいと思っただけだ)、PTA活動で、健常児の親と自閉症児の親に上下関係があるケースなどはざらである。

 

それでも、たとえ最初のとっかかりはお為ごかしだったとしても、言い続けたりやり続けたりしているとそれが徐々に定着していくことはあるので、(自分が何かをしたわけではないが)ソーシャルインクルージョンなどの啓蒙活動には意味があったのだろうし、感謝しなければならないのだろうと思う。自分が子どもの頃に比べれば、自閉症児を取り巻く環境は格段によくなった。かなりの自己負担を覚悟するならば、早期療育によって障害の特性を緩和し、二次障害を起こさないような環境を整えることも可能になってきている。

 

その上で、部分的な社会的包摂がうまく機能するといいと思う。連載の後段で詳しく述べる理由により、個人的には健常者と自閉症者の完全な交流は、お互いにとってストレスが大きいだろうと考えている。だから、よく理想として述べられる全面的社会包摂には、あまり賛成していない。

 

でも、ちょこっと社会参加するメリットは意外と大きいと思うのだ。まず国庫負担が減らせる。療育コストをかけず、障害を放置したまま、ずっと障害者として生活保護をするのと、人生の初期に療育コストをかけ、一部でも社会参加して給料を支給し、税金を納めてもらうのとでは、かかるコストの額がまったく違う。自閉症児の側も、自分に何か役割があることを好む。

 

そして、個人的にはこちらを楽しみにしているのだが、自閉症の子が社会に参加することで、閉塞した日本社会に風穴が開かないかなと思っているのである。

 

いまの日本ではなかなか、「どうして自分の仕事は終わったのに、上司の仕事が片付くまで仕事しているふりを続けなければならないのだろう」と声高には言えない。でも、自閉症者なら簡単に言ってのけそうなのである。

 

「なんでサインじゃなくてハンコじゃないとダメなんですか?」

 

「どうして有給休暇を消化すると白い目で見られるんですか?」

 

「この会議は結論を出すためではなくて、招集者の暇つぶしのためにあるのですか?」

 

多様性を受け入れて、色々な人の意見を聞く意味って、たぶんこういう発言を引き出すためにあるのだ。これを引き出せて、その上で自分たちの社会や組織を変えていくことができれば、少しは面白い世の中になるかもしれない。

 

日本社会は本当の意味では多様性など望んでいないと思うので、こうした取り組みは挫折しているものも多いが、自閉症児とAIは意外と言いたいことを言ってくれるのではないかと期待している。

大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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