自閉症児にも、心の理論がわかるときがくる
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

心の理論というのがある。

 

ふつうは意識しない。意識しなくてもちゃんとわかっているからだ。

 

だが、時として、自閉症児にとってはこれが大問題となる。

 

心の理論を説明しようとするとき、もっともよく用いられるのがサリーとアンの課題だろう。子どもに、次のようなシーンを見せるのだ。

 

a. サリーとアンが一緒に遊んでいる。
b. サリーは持っていたボールを、バスケットに入れる。そして、部屋を出ていく。
c. アンはボールをバスケットからキャビネットに移す(サリーはいない)。
d. サリーが部屋に戻ってきた。

 

サリーはボールがどこにあると考えるだろうか?

 

これが問いである。

 

もちろん、答えは無数にある。他人の考えることなどわからないからだ。

 

ぼくがサリーだったら、まず天井裏から探し始めそうな気がする。探し物が子どものころからものすごく苦手なのだ。

 

えんぴつがなくなって(実家は色鉛筆の芯工場だった。えんぴつが無数にある環境で育ったのだ)、なんどもなんども一生懸命探すのだが、どうしても見つからない。探す努力をしないで安易に助けを求めると怒られる。ぼくは怒られるのが嫌いなので、必死になるのだ。

 

どうしても見つからず、夜のうちに天使がモノを運んでしまうというのは本当にあるのだと確信したころにヘルプを求めるのだが、家人は一瞬でえんぴつを見つけてしまう。そして言われるのだ、「よく探しもしないで!」

 

いや、絶対必死に探している。決して手を抜いているわけではない。ブツがあった場所も何回も捜索済の場所だ。でも目に入っていないのだ。おそらく発達障害の特性の一つなのだろう。

 

断片的な情報はものすごく頭に入ってくるのだが、統合が苦手なのだ。ぼくは今でも芯の部分を見ると、そのえんぴつが2BなのかFなのかだいたいあたりがつく。門前の小僧……というやつである。でも、「じゃあそのえんぴつ、どんなもようだった?」と問われると思い出せない。

 

人の顔を思い出すのも苦手である。瞳とか口唇の形は、我ながらよく記憶しているのである。でも、顔全体の印象が想起できない。

 

よく「どんな感じの人だった?」と問われて、「うーん、蛇口みたいな顔だったよ」とか「オリオン座ふうだった」と答えて、怒られるのである。いや、確かにそう思えるかもしれないが、こっちは大真面目なのである。

 

じゃあ、記憶力が悪いのかといえば、コンピュータの型番や声優さんの発声前のブレスだとか、そういうのはとても正確に記憶できる。人の顔も、パーツはかなり覚えているのである。

 

ああ、ちなみに、初音ミクとかC.C.とか金剛改二とかはしっかりと全体像を覚えている。いますぐに失明しても、一生思い出に困らないほどよく覚えている。人の顔より情報量が少ないのか、単に興味の多寡の違いか、一度検証してみたい。

 

脱線が長くなった。

 

だから、個人的にはサリーがどう思うかと問われれば、「知るか」と答える。アンが食べたと考えるかも知れないし、事象の地平線を超えたと考えるかもしれない。サリーの考えることがわかるなどと思うのは、傲慢である。

 

しかし、世の中にはいわゆる「ふつう」があることも、もちろんわかる。

 

これは、「ふつう」に馴染めているかをはかるテストなのだ。

 

大人であれば、まず間違いなくバスケットと答えられる。本当にボールがあるキャビネットへとボールが移された瞬間を、サリーが見ていないことがわかるからだ。サリーの視点に同化して、サリーの気持ちになって考え、サリーの行動を予測することができる。

 

この他人の心をイメージして、それに寄り添うことは、子どもには難しい。あくまでも自分を基準に世界を認知し、考えるからである。ことに自閉症児にとってはそうだ。

 

子どもたちは次第に長じてサリーの気持ちに同化できるようになる。閾値はだいたい小学校に上がるあたりだ。実際に定型発達のお子さんたちはそうだった。

 

でも、自閉症児はこれが中学生になるときだったり、高校生になるときだったりする。自分は、すでにキャビネットという正答を得ているのになぜそれを開示しないのか、なぜ正しい答えを述べないのか、理解できないのである。サリーはそれを知らないと言われても、サリーに同化する必要性を感じない。できない。

 

でも、このお話を聞いて、自閉症のお子さんをお持ちの親御さんはがっかりしないで欲しい。自閉症児にも、心の理論がわかるときがくる。

 

それは、本当にわかっているのではないかもしれない。

 

ぼくだって、サリーの心には今でも同化できない。でも、サリーが得ている情報から、サリーはこれを知らないという事実を、視点の切り替えなしに推論できるようになる。別の回路をたどって、同じ答えに到達するのだ。

 

ぼくの子の場合は、定型発達の双子の相棒がなかなか手ごわかった。定型発達のくせに、心の理論を解読したのはかなり後になってからだと思う。自閉症児に至ってはいわずもがなだ。

 

そして、ぼく自身が人の心がよくわかっていない。でも、その3人で話していても、まるで相手の心がわかっているかのようにふるまうことくらいはできる。だいじょうぶ、人の心なんてわからなくても、日常生活なんてちゃんと回る。

 

発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします
下記よりお送りください。

 

大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
関連記事

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitterで「本がすき」を