幻の「談志・志ん朝二人会」【第9回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

談志が志ん朝に真打昇進で抜かれた悔しさに関しては、談志自身何度となく書いているし、それが三遊亭圓生を戴いての落語協会分裂騒動や立川流設立などにも関係している、とも言われている。

 

二ツ目の柳家小ゑん時代から売れていて評価も高かった談志は、5年遅れで落語界に入ってきた「志ん生の倅」古今亭朝太(後の志ん朝)が、たとえテレビドラマなどでタレントとして売れていて芸も見事だとはいえ、まさか自分より先に真打になるとは思わなかっただろう。

 

落語家にとって、真打になった順番がそのまま香盤の序列になり、それは生涯変わらない。36人抜きで真打昇進が決まった志ん朝に「真打断れよ」と談志が直談判、志ん朝はそれを撥ねつけた、というのは有名な話だ。

 

1978年の圓生による新協会構想の中心にいた談志が、「次の会長は談志ではなく志ん朝」との圓生の発言に腹を立てて落語協会に戻ったことについては、三遊亭円丈の『御乱心』、立川談之助の『立川流騒動記』、志ん朝一門の『よってたかって古今亭志ん朝』、川戸貞吉氏の『新現代落語家論』、吉川潮氏の談志インタビュー『人生、成り行き—談志一代記—』といった書籍で、それぞれの角度から語られている。

 

談志が新協会での序列にこだわったのは、真打昇進時に「抜かれた」ことが尾を引いていたから、というのは自身も認めているところだが(談志によればこのときも談志は志ん朝に「俺に会長を譲れ」と持ちかけたが拒絶されたという)、志ん朝はこのとき談志が協会に戻ったことを「裏切り」と捉え、直接談志に抗議している(その間の事情は談之助の著書に詳しい)。

 

結局、自身も協会に戻ることになった志ん朝はこの一件で深く傷つき、談志を恨んだともいう。だが、そんな談志に対するわだかまりも、年月が経つにつれて消えていった……と、これは『よってたかって古今亭志ん朝』での弟子たちの証言だ。
『立川談志遺言大全集14 芸人論二 早めの遺言』の「志ん朝へ」では、数年前に志ん朝から「協会へ戻ってくれないか」と頼まれたこと、「二人会をやろう」と提案されたこと、「志ん生を継げよ」「兄さん、口上を言ってくれるかい?」「喜んで言うよ。だけど。もう少し上手くなれよな」という会話があったこと等が明かされている。

 

協会復帰も二人会も志ん生襲名も実現しなかったが、志ん朝の晩年に二人がこうした会話を交わす間柄になっていたことに、ファンとして感慨を覚えずにはいられない。
「なぜ会長にならないんだよ」「だって、圓歌さんが譲らないんだもの」「取っちゃえよ」「そうはいかないよ」なんて会話もあったという。志ん朝の企画による浅草演芸ホールの住吉踊りに誘われ、その後一緒に飲んで「兄さん、久しぶりで旨い酒が飲めたよ」と言われたこと、2年ほど前に「兄さん、俺のコート着てくれよ」と和服のハーフコートをプレゼントされたことも書かれていた。

 

その「志ん朝へ」で、談志はこんな言い方をしている。
「志ん朝、いい時に死んだよ。いろいろと想い出を感謝。でもまさか志ん朝が死ぬとは……、いや人間、いつかは死ぬものなのだ」

 

この「まさか志ん朝が死ぬとは」に、当時の談志の思いが集約されているように思う。

 

談志にとって、同時代に活躍する落語家として志ん朝が存在したことは、きわめて大きな意味を持っていたに違いない。「作品派」の頂点に志ん朝を位置付け、自らはそれとは異なる「己派」の道で頂点を極める……そうはっきり意識したのはいつなのか。『人生、成り行き』で語っているように、「政務次官をしくじった談志」を寄席の客が大歓迎するのを体験し、「今の芸は上手いか拙いかより演者のパーソナリティだ」と痛感した(談志曰く「芸に開眼した」)ときかもしれない。ともあれ、談志は

 

「志ん朝にはできない落語」を追究することに生涯を賭けていた。
「誰よりも落語を愛した」談志は、「理屈抜きに上手い落語」を体現する演者としての志ん朝の存在があればこそ、自分は安心して「業の肯定」だの「イリュージョン」だのといった落語論(自身の表現で言えば「御託」)を述べる家元としての道を歩むことができたのだと思う。

 

生前の志ん朝に対して談志が「人間が描けてない」などと批評した(さらには面と向かって「もっと上手くなれ」と言った)のは、志ん朝に「有無を言わせぬ上手い落語」を極めてほしいという、切なる思いがあったからこそだろう。

 

「談志落語」と「志ん朝落語」。同時代に生きた僕たち落語ファンにとって、その2つは「対」になっていた。
山本益博氏の著書『立川談志を聴け』には、同氏のプロデュースで2000年末までに「談志・志ん朝二人会」を開く構想があったと書かれており、それは二日間で二人が『富久』『文七元結』を交互に演じるという企画だったという。まさに、こういう「聴き比べ」で落語の真髄がわかるのが「談志と志ん朝」という「対の存在」だった。(言うまでもなくこの企画は実現しなかったわけだが……)

 

談志は志ん朝の死を「若い頃から『談志・志ん朝』と称された相方の死」と表現している。その相方が「まさか死ぬとは」。この衝撃は談志にとってどれほど大きかったことか。

 

「一人になってしまった」談志が当時、高座で「志ん朝の分も頑張る」と口にしたのは本心だろう。もはや「どちらが上か」を競う相手は存在しない。はからずも頂点に立ってしまった者としての孤独を覚えつつ、談志は自分の落語ともう一度向き合い、唯一無二の「談志落語」を極めようと、決意を新たにした……というのは推測に過ぎないが、ここからの談志の活躍ぶりを目の当たりにした追っかけファンの一人として、僕にはそう思えてならない。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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