「六人の会」結成と「東西落語研鑽会」のスタート【第13回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

小朝は2003年2月に記者会見を開いて「六人の会」結成と翌3月の「東西落語研鑽会」の開催を発表した。「六人の会」結成の目的は落語界を活性化すること。その最初の企画として打ち出したのが有楽町のよみうりホール(客席数1,100)で隔月に行なわれる「東西落語研鑽会」で、小朝はこれを「かつての東横落語会のように若手の憧れの場となる理想的なホール落語」にしたいと語り、下駄履きでフラッと行く寄席とは異なる「ハレの日」としてのイベントにする、とも言った。

 

この時点ではまだ「大銀座落語祭」の構想は語られず、ただ「新しいホール落語を我々が開催する」と発表したに過ぎない。しかし芸能人として知名度の高い小朝、鶴瓶、志の輔、昇太、花緑らが所属団体の壁を越えて新会派を結成したことのニュースバリューは高く、「六人の会」結成と「東西落語研鑽会」のスタートは、マスコミで大々的に扱われた。「名人の死」以外でこれほどマスコミが「落語」を取り上げたのは久々だ。

 

小朝が引き合いに出した「東横落語会」は、文楽、志ん生、圓生、三木助、小さん、馬生、志ん朝、談志、圓楽、小三治といった錚々たるレギュラー陣が鎬を削った「夢の寄席」である。2003年の落語界でそれに似た「オールスター」的なホール落語を、それも隔月で開催するなんて、現実には不可能だ。志ん朝は既にこの世を去り、圓楽は健康上の理由から高座を務めることがめっきり少なくなった。独立独歩の談志はその手のイベントに出るはずがない。小三治はともかく、それに匹敵する大看板となると……要するに「コマ不足」なのである。

 

だが、それは「落語通」の言い分だ。落語に興味のない一般大衆にとっては、小朝が「そういう会にする」と言い切ったことに意味がある。極論すれば内容や質は問題ではなく、一般人にとって「参加することに意義があるイベント」に思えることが重要なのだ。「六人の会」なるユニットは、その「イベント性」を最もわかりやすくアピールするために小朝が仕掛けた作戦だ。

 

小朝が賢いのは、上方落語を取り込んで「東西落語研鑽会」という打ち出し方をしたこと。東京と上方すべてをひっくるめての「オール落語」ということにしてしまえば、東京4団体の「壁」の持つ意味が希薄になるし、上方の大看板を呼ぶことで「コマ不足」の問題もある程度クリアできる。

 

具体的に、最初の1年間の出演者を見てみよう。
まず2003年3月の「第1回東西落語研鑽会」は、「六人の会」から小朝、鶴瓶、こぶ平が出演し、上方から三代目桂春團治を迎えている。トップバッターは立川談春だ。

 

同年5月の「第2回」は志の輔、鶴瓶、花緑に加え、上方から五代目桂文枝と笑福亭三喬を迎えたラインナップ。
7月の「第3回」は小朝、昇太に加えて東京側から柳家小三治、上方からは月亭八方と笑福亭笑瓶が参加。
9月の「第4回」は志の輔、昇太、こぶ平、上方から春團治と桂つく枝。
11月の「第5回」は鶴瓶、こぶ平の他、東京から柳亭市馬、上方から桂三枝(現・六代目文枝)と桂小米朝(現・米團治)。
そして2004年1月の「第6回」は小朝、こぶ平に加えて東京から柳家喜多八、上方から桂文珍と桂雀々が参加した。

 

プロデューサー小朝の腕の見せ所は、談春、市馬、喜多八といった「これからの東京落語を背負って立つ逸材」を抜擢して世に知らしめるところにあり、その点での小朝の「人材の見極め」はさすがだ。

 

とはいえ、毎回のプログラムを単体で見れば、それほど贅沢なものではない。春團治、文枝、三枝、文珍、八方といった、普段東京では観ることのできない「上方の大物たち」の参加がある程度の豪華さを担保しているものの、鶴瓶や志の輔、昇太が頻繁に出ること以外は、ごく普通のホール落語だ。「こぶ平で一枠が潰れる」ことが度々あるのは、明らかにプログラムの充実度を損ねている。

 

だが、そんなことを言う人種を小朝は相手にしていない。小朝はあくまでも「落語をナマで観たことがない」人たち相手に「東西落語研鑽会」という「新しいイベント」を用意したのである。この「東西落語研鑽会」が従来のホール落語、例えば1999年にスタートした「朝日名人会」(有楽町・朝日ホール)などと異なるのは、言ってみれば「六人の会」が主催するという一点のみ。だが、それは決定的な相違だった。有名落語家がユニットを組んでイベントを主催するという画期的な発想とその派手な

 

プレゼンテーションによって、「六人の会」は閉鎖的な落語界の生温い空気感とは無縁の「新しさ」を感じさせた。小朝が「辣腕プロデューサー」たる所以である。

 

小朝の目論見は見事に的を射ていた。「六人の会」が主催する「東西落語研鑽会」は大盛況となり、今まで「落語を観に行く」という行為に無縁だった世間の人々の幾ばくかの関心を、「現役の落語家」に向けさせることに成功した。

 

そう、この「現役の落語家」というところが重要だ。昔を懐かしむ落語通とも、志の輔ファンや昇太ファンとも異なる、「初めて落語を聴く人たち」という新たな客層を掘り起こした「東西落語研鑽会」は、来たるべき落語ブームへ向けての最初の地ならしの役割を果たすことになったのである。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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