第二十八回 小河俊哉『空の辞典』
関取花の 一冊読んでく?

ryomiyagi

2022/10/07

9月の頭から全国10カ所をまわるツアーがスタートしました。ここ数年は旅行に行けていないので、新幹線や飛行機に乗るだけでいちいちワクワクします。本来だったらライブついでにちょっと延泊でもして、美味しいものや近県を巡ったりしたいところなのですが、ご時世的にまだそういうわけにもいかず、基本的にはライブが終わったらなるべくすぐに東京に帰るようにしています。唯一少しゆっくりできたのは、9月17日に金沢、19日に新潟でライブがあった時です。18日が移動日で新潟に前乗りできたので、19日は会場入りまでやや時間がありました。

 

私はせっかくなので早起きをして、調べたバスに乗り、海を見に行くことにしました。日和山浜というところに向かったのですが、ひとりバスに揺られる約30分の間、乗降客は皆地元の方ばかりで、新潟駅前から少しずつ静かな通りに進むにつれ変わっていく年齢層や街並みを眺めていると、なんだかタイムスリップしたような気分になりました。色褪せたバス停のベンチ、いつの時代だろうという書体の看板、分厚いカーテンでガラス戸が塞がれたままの店。窓の隙間から入ってくる音には、街頭で流れている変な音楽などの雑音は一切ありません。静かな風と、わずかな車が通り過ぎる音くらいです。

 

ゆるやかな坂道をのぼっていくと、少しずつ潮風の匂いがしてきました。私は降りる予定だったところより手前のバス停で降り、のんびり歩いて海に向かうことにしました。ふと見かけた個人商店のシャッターは降りたままで、人の気配もありませんでした。でも、窓にはまだ日焼けて色褪せたりしていない手書きの画用紙が一枚貼ってありました。「ごみを捨てないでください。……〇〇小学校△年×組より」、時の止まったようなこの道を、これからを生きていく小学生たちがたしかに通っていて、この街を、海を守ろうとしている。変わり行く中で変わらずにある何かをそこに感じ、私は思わず立ち止まり、しばらくその画用紙を見つめていました。

 

ちょっとした緑道を通り抜けると、いよいよ海が見えてきました。朝早い時間帯だったのもあり、ほとんど人はおらず、釣りをしている人が数人いるくらいでした。私はいくつかあるうちのひとつの突堤の先まで歩きました。柔らかな砂にスニーカーを沈めながら向かう途中、砕けた貝殻をいくつか拾い集めました。ポケットに入れると擦れ合ってシャリシャリという音がして、海に行っても泳がずに貝殻ばかり集めていた子供の頃を思い出し、懐かしい気持ちになりました。

 

海に突き出した突堤のまわりには、無数のテトラポッドが並んでいました。子供の頃はなんのためにそれがあるのか、意味をよくわかっていなかったので、ある種の幾何学模様くらいに捉えていましたが、その役割を知った大人になった今、間近でテトラポッドを見ると、その迫力に思わず圧倒されました。藻や貝がたくさん張り付いたその肌は、一体どれだけの波風を受け止めてきたのでしょう。ただ黙って海を見つめながら、彼らはいつも何を思っているのでしょう。想像しても何もわかりませんでした。でも、たしかな業のようなものを感じました。

 

いざ突堤の先に立つと、打ちつける波の勢いは想像以上に凄まじく、私は気を抜くと足がすくんでしまいそうでした。透明な水は真っ白な泡となり、コンクリートに全速力でぶつかってきます。ザアァァァァァ……という音が向こう側から少しずつこちらに近づいてきて、どんどん大きくなり、ザパアァァァァァン! と大きく音をたて、暴れ襲い掛かるように私の足元までやってきました。それは恐怖であり、でもすべての胸のざわめきをかき消してくれるような気持ちよさがありました。ありきたりかもしれませんが、そうか、私はその気になれば一瞬でこの波に飲みこまれてしまうくらいちっぽけな存在なんだ、と、あらためて感じました。でも絶望のそれではなく、私にとっては希望を感じた瞬間でもありました。

 

自分が気にしているようなことなんて、未来に対するぼんやりとした不安なんて、この波の音ひとつでかき消せるくらいのものなのだと思ったら、どうでもよくなりました。私は目を閉じて、しばらくその音に身を委ねることにしました。静かに高鳴る鼓動と、波、そして風の音。それは間違いなく最高の音楽であり、ライブでした。この境地に辿り着けるような音をまだ奏でもしないで、何をいろんなことを知ったような気になっていたのだろうと、少し恥ずかしくもなりました。うまく言えませんが、とりあえず生きようと思いました。20分くらいそうしていたつもりでしたが、時計を見るとすでに一時間が経っていました。それでも自分にとってはまだまだ短くて、もう少しここにいたいとさえ思いました。ここではないどこかへ行けたような気がして、何かの答えがほんの少し見えたような気がした、一瞬の出来事でした。

 

しかし、このままでは会場入りに遅れてしまうとさすがにハッとした私は、あたふたと帰りのバスに乗り、新潟駅に戻ることにしました。再び降り立った新潟駅は、行きとはまた違う景色に見えました。そう、私にとって、たしかにあれは旅でした。たった一時間の、でも世界を少し変えてくれる、大切な大切な旅でした。

 

ということで、今月の質問です。

 

今月の質問:「ここではないどこかに行けるとしたら、どこに行きたいですか?」

 

ふと、遠くへ行きたいと思うことってありますよね。私の場合は、「知らない世界に触れたい」という気持ちになった時、そう思います。大人になるといろんなことをなんとなく学んで、大体こういう風に世界と時代は動いているのだと察してしまったり、あるいは察したふりをしてしまうことがあります。でも本当はそんなことはなくて、いくつになってもまだまだ知らないことだらけなはずなんです。それを今一度たしかめて、好奇心の充電をしたい。そのために、ここではないどこかへ行きたい。みなさんもそういう時、ありませんか? 今月もたくさんのメッセージ、ありがとうございました。その中から今日は、こちらのメッセージをピックアップいたします。

 

お名前:みーこ
回答:雲の上に行きたい。飛行機で雲を突き抜けた後に広がる快晴の空ともこもこの雲が大好き!ここ数年飛行機に乗る機会がないので、あの景色が恋しいです。

 

私も先日ツアーで福岡に向かう飛行機の中で、久しぶりに窓の向こうに広がる雲の群れを見ました。あの景色を見ると、いくつになっても、何度眺めても、「あそこに飛び込んでみたい!」と思います。嘘みたいに綺麗で、全部受け止めてくれそうなくらいなんだか優しくて、でも手を伸ばしたらきっと何も掴めない、曇って本当に不思議な存在です。でもあの語りすぎない感じが、これから何が起こるかわからない旅への気分を、より盛り上げてくれるんでしょうね。だから私も雲、大好きです。大好きだから、もっと知りたいなあとある時思いました。今回は、そんな時にふと書店で見かけて、思わず購入してしまったこちらの本をご紹介したいと思います。小河俊哉『空の辞典』です。

 

『空の辞典』雷鳥社(2014年)
小川俊哉/著

 

辞典といっても、国語辞典や和英・英和辞典のような内容ではありません。たくさんの空や雲などの写真と共に、それがなんという名前なのか、そしてなぜそう呼ばれているのかなどが、短い文章で簡潔に綴られています。

 

たとえば今の季節、秋によく見られる“鱗雲”。これは、「小さな雲が斑点状、または列状に広がった雲。魚の鱗のように見えることから呼ばれている。巻積雲の俗称で、鰯雲、鯖雲ともいう。」そうです。私はこの名前を知ってから、散歩中に鱗雲を見かけた日は、帰りに魚を買って帰りたくなるようになりました。たったそれだけのことかもしれません、でも、それだけで毎日の生活が少し楽しくなったりするんですよね。魚の種類は数あれど、別名でなぜ“鰯雲”や“鯖雲”と呼ばれているのかを考えると、それは秋にできる雲だから、秋に旬を迎える魚の名前がついているのかなあとか、いろんな興味が湧いてきます。こうやって連想ゲームのように話が繋がっていくと、もっと知りたいことがどんどん増えて、心が豊かになっていく気がします。そういえば子供の頃って、こうやって雲や空、いろんな話に興味を持って行ったんだなあ、と思い出したりもしました。

 

そしてまさに、みーこさんの好きな、飛行機から見下ろした時に見える雲についても記載されていました。あれ、“雲海”っていうみたいです。「標高の高い山や飛行機などから見下ろしたとき、海のように見える雲のこと。山間部などでの放射冷却によって、霧や層雲が広い範囲にわたって発生した場合に見られる。」とのことですが、私はお恥ずかしながら全然知りませんでした。海みたいに雲が広がっているなあ、とは漠然と思っていましたが、まさかちゃんと名称としてあったとは! それに、普段眺めている雲を空の上から眺めたらこう見えるんだなあ、くらいに思っていましたが、ある条件を満たした時に見える、つまり飛行機に乗っている時だからこそ見える雲だったということなんですね。「飛行機に乗っているからいつもの雲が特別に見える」のではなく、「飛行機に乗らないと見られない雲を見ている」と思うと、ますます飛行機での旅が楽しくなりそうです。私はこの原稿を書いている数日後に、ちょうどツアーで札幌に向かう飛行機に乗ります。その時は、あらためてこのことを噛み締めながら窓の外に目を凝らそうと思います。

 

もちろん、この本は『空の辞典』ですから、雲以外にも、風や雨、雪、霧、光、そして空の色など、さまざまなものについて知ることができます。飛行機はもちろん、電車、車、教室、職場、そして家の窓から、私たちはいつだって空を眺めることができます。まだ気軽に旅行には行けないかもしれませんが、身近に広がる空という世界に、今だからこそ思いを馳せ、旅に出てみてもいいのかもしれません。そしていつか、遠い場所や国に出かけられた時、いつか近所で見かけた雲と同じものなんかを発見できたら、ちょっと嬉しくないですか。ぜひみなさんも読んでみてくださいね。

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さて、いよいよもう来月は11月。少し早いかもしれませんが、今年を振り返りたくなってくる時期だと思います。(12月はみんな何かとバタバタしていると思うので、案外これくらいの方がゆっくり振り返れる気がする)ということで、今月の質問はこちらです。具体的なものでも、抽象的な、「何かある気がするけれど、それが何かはわからない」みたいな話でも大丈夫ですよ。皆さんからのたくさんのメッセージ、お待ちしております!

 

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