ryomiyagi
2019/12/15
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2019/12/15
對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々』(中公新書)2015年
連載第31回で紹介した『ゲーデルの哲学』に続けて読んでいただきたいのが、『ヒトラーに抵抗した人々――反ナチ市民の勇気とは何か』である。本書をご覧になれば、なぜナチス・ドイツが成立したのか、現代にも通じる「極右」の本質とは何か、抵抗した人々の「勇気」がいかに壮絶なものだったか、明らかになってくるだろう。
著者の對馬達雄氏は、1945年生まれ。東北大学教育学部卒業後、同大学大学院教育学研究科博士課程中退。秋田大学教授を経て、現在は秋田大学名誉教授。専門は教育学・西洋史学。とくにドイツの教育学者フリードリヒ・ディースターヴェークと反ナチズム運動に関する研究で知られ、『ディースターヴェーク研究』(創文社)や『ナチズム・抵抗運動・戦後教育』(昭和堂)などの著書がある。
1985年5月8日、西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が、終戦後40年を振り返り、連邦議会で「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」という有名な演説を行った。ヴァイツゼッカーによれば、第二次大戦前のドイツ国民もまた、ナチスのプロパガンダや脅迫による強権支配の「被害者」である。そこで彼は、5月8日の終戦記念日をドイツ国民の「解放の日」だと述べたのである。
しかし、「話はそんなに単純ではない」というのが對馬氏の立場である。なぜなら、ナチス政権当時のドイツ国民が、圧倒的にヒトラーとナチス党支配を歓迎し支え続けてきたという事実が、そこで「曖昧」にされているからである。
第一次大戦で敗北し、世界恐慌下にあったドイツには、大量の失業者が溢れていた。ところが、ヒトラーは、新たに徴兵制を制定して86万人の若者を「ドイツ国防軍」に吸収し、軍需・自動車産業や「アウトバーン」建設に多額の公共投資を行って、ほぼ1年で完全雇用の実現に成功した。
さらにヒトラーは、「一家に車一台」を供給して「週末には家族で車に乗ってピクニック」ができるようにすると公約した。ナチス政権成立後、実際にドイツの景気は大幅に回復し、国民総生産と国民所得は、数年で一挙に2倍近くに膨れ上がった。ドイツ国民は熱狂した。彼らは積極的にナチス党に投票し、支援したのである。
ヒトラーの独裁体制を底辺で強固にしたのが「密告制度」だった。ナチス党は、領土全域に最大200万人におよぶ党地区班長を配置し、職場や家庭に監視網が敷かれた。知人や友人、場合によっては親子でさえ「体制の敵」として密告された。離婚申請者が自分の裁判を有利にするため、相手を故意に密告することもあったという。
この制度の法的根拠は、独裁体制成立直後の1934年12月に制定された「悪意法(国家と党に対する悪意ある攻撃を阻止するための法律)」である。ヒトラーやナチスに対する批判、あるいは「ユダヤ人救援」は即座に「悪意」とみなされ、秘密警察ゲシュタポは、裁判手続きなしに「容疑者」を逮捕して強制収容所に送り込んだ。
ミュンヘン大学医学部の学生ハンス・ショルは、反ナチズムの「白薔薇通信」を地下出版し続けた。最終号となった1943年発行の第6号のビラには、「我々ドイツ国民すべての名において、アドルフ・ヒトラーに国家を要求する。個人の自由を返せ。これこそがドイツの最も貴重な財産であり、奴が卑劣極まりない手段で我々から騙し取ったものだ」と記載されている。ハンスは、このビラを大学構内で撒いているところを捕まった妹ゾフィーと共に、国家反逆罪で「斬首刑」に処せられた。
本書には、「ヒトラー暗殺計画」に加わった軍人や政治家ばかりでなく、ナチス抵抗活動に立ち上がった無名の市民のエピソードが登場する。平凡な主婦が、自分の身分証明書を身籠ったユダヤ人女性に手渡して亡命させた。この主婦は、後でゲシュタポに尋問されたが、証明書は盗まれたと言い張って難を逃れることができた。
ドイツ人の反ナチ活動とは、報われない孤独な現実に身を投じることであった。にもかかわらず彼らはなぜそのように決断し行動したのだろう。この問いの行きつく先は、ヒトラーのドイツと異なる、彼らの思い描く祖国ドイツ、要するに「もう一つのドイツ」のためというほかない。(P.v)
なぜ何の後ろ盾もない市民が自力で判断し行動できたのか、失われつつある「市民的勇気」とは何かを理解するためにも、『ヒトラーに抵抗した人々』は必読である!
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