第三章 ラブラッド(2)ブルーノ・マーズ
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/09/04

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第三章
ラブラッド(2)ブルーノ・マーズ

 

 菜々子は首を小さく横に振り、もう一度、次は大きな振りになった。
「していない」
「まだ菜々子のも確定じゃないもんね」
「まあね。ただ、どうあれ、さっきからずっとこの辺りがね」
 と、カップをテーブルに置いて胸の辺りをなぞった。
「ざわざわしてる。ざわざわしていること自体が変でしょ。厄介だなって感じてるの。こんな話、謙太やジヒョンにはわかってもらえないと思うんだけど、家族のことを考えないようにしていたから」

 

 

「なんで、って訊いていい?」
 謙太がカップを置いて、首を傾げた。
 答えるのに。妙にむきになった。
「この間から、ほら、生まれた病院の名前も聞けていないし、血液型の話なんか訊くのが面倒な相手なんだよ」
 そう言われ口ごもる謙太に、菜々子が自分で結論を出す。
「ごめん、わかってっていうつもりはないんだ、こんな話。温かい家庭じゃなかった、というよりは私だけなのかな、弟とは違って、私だけが結構、母にはよそよそしくされて育ったからね。なんか私は要らないのかな、とか思っててさ。だから、血液型が違うとかって、シャレにならない感じ」
 まだ、沈黙が続いた。
「なんでなのかな?」
 と、謙太は菜々子の瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「だから、説明してもわかんないよ。違和感としか言いようがないんだから」
「違う」
 謙太の方が遮った。
「なんでかって訊いたのは、どうしてそうやって自分の方から扉を閉めてしまうのかってこと。何のために、俺はいるの?」
 眉を寄せた深刻そうな表情に、
「天才な謙太くんはバイクの運転がうまいし、セックスが気持ちいいから」
 菜々子は、ついこんな風に、瞬時に偽悪的になる。
「運転がうまいと言ってもらえるなら嬉しいよ。それ、が気持ちがいいのも、本当なら嬉しいよ。でもさ、じゃ訊くけど、男と女はなんのために、それ、するの? 繰り返し、同じようなことを、何度も」
「そうだよね、私たちは子孫を残そうともしてないしね」
 菜々子が見返すと、謙太は言った。
「お互いをもっと解りたくてしてるんじゃないの? 俺はそうだけど。菜々子は違うの? 心も体もわかり合いたくてしてる」
「ずるいよ、急にそんな正論」
「ずるくないよ。いつか言おうと思ってた。もうやめない? 謙太にはわからないだろうけど、って言うの。言われるたびに俺、結構情けなかったよ」

 

 

 だけど、本当に謙太やジヒョンのような温かい家庭に育った人たちにはわかってもらえないと思うのだ。前を歩く母親の後ろを必死で追いかけても、振り向いてももらえず、追いついたとしても、手を握ってももらえなかった時に感じた気持ち。母はそういう人なのだと思ってきたが、弟が生まれてからは別人のようになった。弟贔屓なのは仕方がないと言い聞かせて、サーちゃんを親代わりに頼るしかなかった。
 一人暮らしになってからは、ほとんど実家にも帰っていないし、連絡を取ることも稀だ。向こうも気にはしていないみたいだ。家族について、菜々子は考えるのを放棄してしまったに等しい。
 そんな関係の親子が、血液型みたいな根源的な話をするのは、やはり厄介だ。
 だったらはじめから、謙太に何も言わなければいいのに、まるで八つ当たりするように「どうせ、あなたにはわからない」だなんて言うのはひどい甘えだよなと自分で思う。
「謙太、あれってブルートゥース・スピーカーだよね。繋げていい?」
 菜々子はそう言って、リビングの片隅に置いてある円柱型のスピーカーを指差す。タビケン一リッチだという噂のハルの部屋に置いてあったのを見て以来、ちょっと憧れだった。
〈Talking to the Moon〉
 スマホにダウンロードしてある曲のプレイリストから、選ぶ。
 いつもは一人きりでしか聴いていなかった曲。ブルーノ・マーズのしわがれた声が、質のいいスピーカーを通すと、こんなにリアルに、語りかけてくるように響くのだと感心する。スローバラードを、本当は謙太と二人で聴くには照れがあるが、今日は、自分の気持ちを託すように、この曲を、一緒に聴いてもらうことにした。
 自分なりの訳だけれど、こんな歌詞だ。

 

 君が、どこかにいるのはわかっているんだどこか、とても遠い場所に
 戻ってきてほしい
 戻ってきてくれないかな
 
 夜に星々が僕の部屋を照らし出す時、僕は独りきりで座っている
 
 月に話しかけるんだ
 君に届くように
 ……

 

 失恋の歌なのはわかっている。
 けれど、そこで歌われているのは、菜々子が、小さい頃に抱いていた感情によく似ている。

 

 

「こんなセンチメンタルな曲も聴くんだね、菜々子さまは」
 と、いつもの調子でからかってくる謙太に、ほっとする。
「私、今日はちょっと多感になっちゃってるよね」
「なればいいでしょ。俺はどんな菜々子も受け止めたいけどな」
「見て、この曲みたいに本当に月が出てきた」
 窓辺に立って、ガラス窓を押し開くと、謙太も隣に来て空を見上げた。
 隣に並ぶと、謙太の体温や二の腕の硬さを感じる。温もった体が放つ、柔らかい匂いも。
「菜々子、これはさ、サイエンスの問題。とにかくまず、ご両親の血液型を確かめてみたらどうなの? 何も心情的な問題じゃないでしょ。これから、お父さんやお母さんにもしものことがあっても、血液型をわかっておくのは必要だよ」
「そうだね」
 月は澄んでいて、大きくふっくら膨らんで見えたので、素直にそう答えた。
「湯河原まで行くならさ、付き合うし」
「大丈夫。元気出ちゃった。今日は、もう帰るね。だって謙太、本当は宿題終わってないはずだもん」
「バレてる?」
 謙太はそう言うと、丸い月を抱くように菜々子の肩を一度だけ抱き寄せた。

 

次回につづく(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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