第9章 異邦人(2)ソン
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/04/02

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第9章 
異邦人(2)ソン

 

 弟の言葉が、いつもの掠れた声で、堰を切ったように溢れ出した。
「それで、もう一つの家族はさ、このことをもう知ってるの? ちゃんと伝えた? 向こうはなんて言ってるんだよ。めちゃくちゃな話じゃん。俺、もうやってらんないよ」
 そうだ、そのもう一つの家族こそが、本当なら自分が育つべきはずの家庭だったのだ、と菜々子は思う。
 たまたま向こうの家族に育てられた子どもは、一体は、どうしているのだろう? 同じ年に無事に生まれた韓国籍ということしか、わからない。
 学生なのか、働いているのか、どんな境遇だったとしても、今、幸せなのかが知りたい。いや、幸せでいて欲しいと願ったところで仕方がないし、意味がない。でも、笑顔なのかどうか、それだけ、特別気になっているのが不思議だった。

 

 

「みなさんの仰ることはごもっともだと思いますが、今現在はそちらと連絡が取れているわけではありません。厳密に言いますと、そちらの患者様の追跡ができていません」
 と、月見里が銀色のペンの先を落ち着きなく左右に揺らしながら言った。男のもう一人は、ずっと黙ったまま記録していた。
「今時さ、真剣に捜す気になったら、どこの国にいたって捜せるんじゃないの? そうでしょう?」
 そこまで話すと、弟はため息をつき、椅子の背に体を預けた。
 今、皆の様子がおかしくなってしまっていて、紛れもなくそうさせたのは、自分が見つけてきたたった一つの真実だ。それが菜々子を泣きたくさせた。

 

「院長からは、お話は聞けないんですか?」
 菜々子は、向かい合って座る息子の医長の答えを待った。
「高齢につき、しばらく体調が芳しくなく、本日は出席できません」
 予想した返事から、お詫びが抜けていた。
「でも、その日のことは、移植した日のことはきっと、覚えていたんですよね?」
 菜々子には、確信がある。なぜなら、菜々子の母子手帳の血液型は、わざわざO型と記入されていたのだ。取り違えの疑念を持ち、二人の新生児の血液型を秘密裏に調べたに違いない。その際、血液型まで書き込んだ。
 それは、意図したなら、犯罪だ。
 あの日、院長室で直接向かい合って話した時にだって、院長は狼狽していなかった。まさかわかるものか、と、高を括っているようでもなかった。
 コーヒーカップの中で角砂糖を、その皺の寄った手で執拗にかき回し、ついに来るべき日が来たとでもいうように、その渦に見入っていた。

 

「韓国の家族についての手がかりを、すぐに教えてもらえませんか? 院長はご存知なのではないんですか?」
「少なくとも、当時のお住まいにはおられないこともあり、時間はかかるかと」
 月見里が、ペンを揺らすのをやめて、そればかりは随分と明確にそう伝えてきた。
「本当の親に会いたいんです。どうしても」
 情けないが、菜々子の声が震えた。それを聞いて、母はうなだれて、大粒の涙をこぼした。
「菜々ちゃん、今日はもうやめにしよう」
 サーちゃんが、少し厳しい口調でそう制してきた。
「違うよ、サーちゃん。今ここにいるのは、私の家族。サーちゃんもみんな。私は今まで、この家族に育ててもらった。でも、本当の親にだって会ってみたいんだよ。その想いは、私の中から消えるはずがない。どんどん膨らむばかりなの」
「ただですね、守秘義務というのがありまして」
 耳たぶにピアスを揺らす坂上は、真顔に力を込めてそう言った。
「くっだらねえな、今更」
 弟が頭に手をやる。
「だったら、もし見つからなかったら、それでやめにするおつもりなんですか?」
 菜々子は、医長の揺れる目を見つめる。
「それ、院長も同じ考えなんですか? それでも、お二人は医師ですか?」
 なぜなのか、血液型の書き込みのことは菜々子は口にしなかった。老院長を犯罪者にする気にはされなかった。

 

 

「いや、父はそういう人間では」
 医長が、唇を噛み、
「まあ、今はその段階ではないかと思いますね」
 月見里が、いい加減な言葉を口にのせ、あからさまに手を伸ばして、医長の発言を止めにかかる。
「どの段階だって言うの? じゃあ何年後に答えを出すの? もう二十二年間も、私たちは間違えられてきて、まだ先延ばしにするの?」
 少し前まで、母が守るべき人に見えていた。だから、面会はもう中断すべきだと言ったのは菜々子なのに、ここしばらくずっと自分の中になんとか閉じ込めていた想いが溢れてしまう。
「そうよね、私だって、会ってみたいわ」
 母が顔を上げた。
 母だって、自分の本当の子どもに会ってみたいに違いない。どこかがきっと、彼女や父や弟によく似た子どもなのだ。菜々子とは違って。
「今後のことを、いずれにしろお話ししたいと思います。まだ少しお時間はよろしいでしょうか?」
 坂上の問いかけに続けて、医長が言う。
「一旦、休憩を挟みましょう。コーヒーを運ばせますので。十分後の再開でいかがでしょうか」
 張り詰めていた空気が一旦萎み、家族は、めいめい廊下に出た。

 

 

 父と母は、廊下の壁に寄りかかるようにして、話している。背広姿の父と、和服姿の母は、急に年老いたように見えた。
 菜々子は思い立って、廊下を奥へと進んだ。彼らに気づかれないのを認め、階下へと駆け下りた。すでに照明の消えた院内は、薄暗いが、それは大学の研究棟でも慣れていた。先日の院長室を見つけ、扉に手をかけたが、鍵がかかっているようだ。のぞき窓からは、室内の照明も消えていて、人のいる気配はなかった。
 その時、不思議な金属音が遠くに響いた気がした。

 

 こつん、こつん。
 その音の方を見やると、人影が慌てて廊下の角を曲がろうとしている。松葉杖をつきながら、ぎこちなく歩を急いで進めている。
 追いかけていこうとした時、角を曲がる人影の白衣のポケットから、何かがこぼれ落ちた。
 そこまで駆けていき、菜々子は床にしゃがんで、折り畳まれた小さな紙切れを拾い上げた。

 

〈父 宋 ミンジュン
 母   カウン
 六月二十日 誕生
 出生児体重 3430g女児〉

 

 そこには、ソウル特別市江南区で始まる住所も記されてあった。
 菜々子は、今自分が目にしているその苗字に見覚えがあった。
 日本で生まれたジヒョンの苗字はソン。
 違う苗字のようだが、
「宋と書いて、韓国ではソンと読むことが多いです」と教えてくれたのだ。
 ジヒョンと自分の誕生日は、確か一日違い。
 このメモにあるなら三日違っているが、もしかしたら韓国では誕生日に関する日本とは違った考え方や習慣があることだって十分考えられる。
 世田谷の幼稚園に、ジヒョンは通った。幼稚園からこの病院もさほど離れていない。
 まさか、そんなことがあっていいのか?
 凍結保存の受精卵の入れ替わった相手は、ジヒョン?
 心の中が、激しく泡立った。

 

 

 スマホを手に、菜々子はジヒョンに電話をかけた。
「ああ、菜々子? 元気にしている?」
「ねえ、ジヒョン、急に訊くけど、お父さんとお母さんの名前、教えて」
 受話の向こうで、軽快なK-popの音楽が流れていた。
「ああ、ちょっと待って。どうして私の親の名前を知りたい? おかしい菜々子! 私の苗字は、宋と書いてソンと読みますよ。それでお父さんは……」
 胸が速く強く、そして激しく打っていた。菜々子はスマホを耳にあてながら、壁に細い指をついた。壁よりも今、その指先は冷えていた。

 

 

毎週金曜日更新
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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