ちょうどよくしあわせ『平場の月』朝倉かすみ
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『平場の月』が刊行された。
久しぶりの書き下ろしだった。書いているあいだ、小説家になりたいという考えもまだ充分に育っていないまま、ただただ書きたいものを書いていたころをよく思い出した。これはそんなふうに書いた。そんなふうに毎日書けたことが、まことに嬉しかった。

 

「実感」を軸にして書こうと目論んだので、派遣バイトに行った。わたしはポンコツな働き手だった。想像していたよりはるかにダメだった。小説家というだけで周りに甘やかされ、ゆるされてきた十何年で、鼻持ちならないタイプの腑抜けになっていたらしく、平場の厳しさがだいぶ身に沁みた。

 

折しも年老いた両親の介護問題に直面し、現実ってやつや、足元ってやつを見つめざるをえなくなった。

 

そんなある夜、電池をコンビニに買いに行く途中、月が出ていることに気づいた。太り始めた三日月で、山吹色をしていた。そういや最近空を見上げてないな、と思った。朝、駅まで歩くときも、夕方、駅から歩くときも、足元だけを見ていた。こどものころはしょっちゅう空を仰いだものなのに。

 

以前『田村はまだか』を出版した。四十歳の男女たちを書いた小説だった。

 

十年経って、五十歳の男女を書いたのが『平場の月』だ。恋愛小説である。ひとことでいうと悲恋なのだが、その悲しさは、どうということのない秋の夜を大事なひととふたりで歩いた、ちょうどよくしあわせな日常の記憶が、二度と戻らない事実として心に差し込み、声にならない声が絞り出されるたぐいのものであったらいいと思う。

 

感覚的な表現で恐縮だが、『田村はまだか』は空を見上げる瞬間を書いた小説だった。『平場の月』も喉をそらし、空を見上げる小説である。どうか、高く、広い空に、精一杯手を伸ばす小説になっていますように。

 

『平場の月』
本体1600円+税

 

中学時代の同級生、青砥と須藤は病院の売店で再会した。50年生きてきた男と女には、老いた家族や過去もあり、危うくて静かな世界が縷々と流れる。心のすき間を埋めるような感情のうねりを、求めあう熱情を、生きる哀しみを、圧倒的な筆致で描く、大人の恋愛小説。

 

PROFILE
あさくら・かすみ 1960年北海道生まれ。「コマドリさんのこと」で北海道新聞文学賞、「肝、焼ける」で小説現代新人賞、『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞受賞。他に『満潮』など。インタビューはこちら

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