「産業革命以来最大の技術革新」とは何か?
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太平洋を挟んだ日本と米国でそれぞれ誕生した新興企業の出会い

 

前回のコラムで、日本の工作機械産業は、生産高および輸出入比率両方の観点から、1970年代から1980年代にかけて、その多くを海外に輸出できるだけの技術力を持った産業へと発展し、国際競争力を高めてきたことについて触れました。

 

では、日本の工作機械産業が1970年代以降、次第にキャッチアップして、高い競争力を持つに至ったのはなぜでしょうか。

 

それには、もちろん様々な要因が挙げられます。

 

工作機械メーカー自身の、キャッチアップに向けた不断の努力は不可欠だったことはいうまでもありません。

 

例えば、ライセンス契約を締結して、当時技術的に進んでいた米国の工作機械メーカーから熱心に技術の導入を図ったり、先進的な工作機械のリバース・エンジニアリング(機械の構造を分解して技術情報を調査すること)にも熱心に取り組んだりもしました。また、自動車や家電等の優れたユーザー企業の存在も指摘されています。ユーザー企業からの高度な要請に応えようとすることで、技術はたしかに磨かれるからです。

 

しかし、その中で必ず言及しなければならない最も重要な要因の一つがあります。それは、CNC(コンピュータ数値制御)装置の工作機械への導入に、いち早く成功したことです。工作機械産業において、それが産業革命以来最大の技術革新といわれています。

 

どういうことでしょうか。

 

CNC装置は工作機械をコンピュータで自動制御する、頭脳部分であり司令塔のようなものです。そして、CNC装置の開発を草創期からリードしたのは、富士通の社内新規事業として1956年に始まり、その後、分社化して独立したファナックです。1972年に富士通本体から分離独立した際の社名は富士通ファナックでしたが、その後1982年には社名をファナックに変更しています。

 

ファナックはその創業初期にインテルと出会い、1975年にいち早くインテルのMPUを自社のCNC装置へ導入したのですが、それによって日本の工作機械の競争力を飛躍的に高めて顧客層を大きく拡張したのです。

 

IBMがパソコンにインテルのMPUを初めて導入したのが1981年だったことを考えると、それがいかに早い先進的な取り組みだったのかは容易に想像がつくのではないでしょうか。

 

すなわち、パソコン産業よりなんと6年も早くMPUを導入したのです。

 

それは日本のみならず、インテルにとっても大きなメリットをもたらした出会いでした。実はCNC装置の導入は、MPUの不具合が頻発して一筋縄ではいかないものだったのです。しかし、その不具合を修正するための様々な努力と試行錯誤が、インテルの品質管理能力を大きく向上させることになりました。そしてそれが、その後のパソコン産業への参入をスムーズなものにしたのです。

 

太平洋を挟んだ日本と米国で、それぞれ誕生した新興企業の出会いが、その後の産業の進化に大きな影響を与えたことになったのです。

 

※以上、『日本のものづくりを支えた ファナックとインテルの戦略』(柴田友厚著、光文社新書)から抜粋し、一部改変してお届けしました。

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柴田友厚(しばたともあつ)

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