新規事業が成功するためには? −−−−ものづくりを支える「世界最強の裏方産業」を例に考える(1)
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先見の明

 

1956年、富士通通信機製造株式会社(現在、富士通。以下、富士通と称する)の技術担当常務だった尾見半左右は、当時主力事業だったコミュニケーション分野以外にコンピュータとコントロールという新しい事業分野に進出することを決め、池田敏雄と稲葉清右衛門をそれぞれのプロジェクトリーダーに任命しました。

 

当時、尾見は稲葉に対して次のように言ったといいます。

 

稲葉君、これからは3Cの時代が必ず来る。君にはコントロールの開発をやってもらうよ。(稲葉清右衛門『黄色いロボット』日本工業新聞社、1991年)

 

3Cとは、CommunicationとComputerとControlのことです。当時の富士通は、富士通通信機製造という名称からもわかるように、コンピュータを作る会社ではなく、通信機を作る会社でした。

 

ここで述べられているのは、「Communicationにはすでに取り組んでいるから、今後はComputerとControlに取り組む」ということでしょう。

 

そして、その後の歴史を知る私たちは、「3Cの時代が必ず来る」という尾見常務の先読みは、実に慧眼だったということを知っています。時代はまさにその通りに進んでいるからです。

 

コンピュータの池田とコントロールの稲葉

 

池田はコンピュータチームのリーダーに、稲葉はコントロールチームのリーダーに任命されます。尾見が彼らに対して指示したことは、その分野であれば「何をやってもよろしい」ということだけでした。

 

つまり、尾見はコンピュータやコントロールという大きな方向性は特定したのですが、その枠内であれば、細かな事業分野や具体的な取り組みについては現場のリーダーである池田と稲葉に任せたのです。

 

池田と稲葉は同期として1946年に富士通に入社し、ほぼ同じ時期に課長になっています。そして池田は1958年に電子技術部の電算課長になり、稲葉は1957年に同じ部の自動制御課長になっています。

 

その後、池田が率いるコンピュータチームは国産コンピュータの開発に邁進し、最終的に富士通はコンピュータを作る会社に変貌しました。その後、富士通は日本を代表するコンピュータメーカーに成長したので、この社内新規事業は成功したといっていいでしょう。

 

そして、この苦闘と成功のストーリーは、テレビや雑誌、書籍等でこれまで多く取り上げられてきたのでご存知の方も多いでしょう。

 

一つのことを考え続けると数日間出社しなかったという池田の天才肌気質や、51歳という若さで業務中にくも膜下出血で死去したという波乱万丈の人生とも相まって、NHKの「プロジェクトX」を始めとして、多くのメディアは劇的なストーリーとして国産コンピュータ開発プロジェクトを紹介してきました。

 

しかし、ここで見落としてはならないのが、コントロールチームの成功です。

 

この成功が、その後の日本の工作機械産業の競争力の向上に大きく寄与し、そしてそれが、「機械を作る機械」として日本の製造業を下支えしたことを考えると、コンピュータチームの成功と比べても、なんら遜色のないインパクトをその後の産業に与えたのです。

 

すなわち、富士通の2つの社内新規事業は、いずれも結果として大きく成功しました。

 

東北大学大学院教授・柴田友厚氏の新刊『日本のものづくりを支えた ファナックとインテルの戦略』(光文社新書)では、コンピュータと比べると地味で、これまであまり表舞台で語られなかったほうの事業に光を当てています。

 

突然、目の前に現れたNCというテーマ

 

いずれにしても、池田がコンピュータの開発に取り組んだ一方で、稲葉はコントロール分野で新規分野を模索していました。しかし、コントロール関係の分野といっても多くの選択肢があり、やすやすと事業の分野が決まるわけではありませんでした。

 

稲葉は東京大学精密機械工学科を卒業した機械技術者だったことから、得意分野を生かせる機械に関するコントロール分野を探していました。

 

しかし、開発のテーマはなかなか決まりませんでした。

 

そこに突如現れたのが、MITレポートに触れたことによって、NC(数値制御)というテーマでした。

 

稲葉が初めてMITレポートを知ったのは、1956年の10月に早稲田大学で開催された第47回自動制御研究会においてでした。そこで、高橋安人(やすんど)カリフォルニア大学教授(当時)が、「サイエンティフィック・アメリカン」誌に掲載されたシンシナチ・ミラクロン社のNCフライス盤の記事を紹介したのです。すると、この記事は大きな反響を呼び、早速、東京工業大学、東大、機械技術研究所などでNCの研究が始めることになります。

 

このとき、コントロール関係の新事業を模索していた稲葉も、強い関心を抱きました。

 

MITレポートに触れたときの心情を、稲葉は次のように語っています。

 

根が機械屋である私は、MITレポートの報告を聞いた瞬間から、サーボ機構に強い興味を覚え、早速、尾見博士の承諾を得て、コントロールチームの研究開発のテーマをNCに絞ることに決めた。(中略)そして、高橋安人先生によって紹介されたMITレポートは、その後、しばらくの間、我々の研究の“バイブル”になった。
(『黄色いロボット』)

 

また、次のようにも回想しています。

 

  私は根が機械技術者なものですから、機械関係で何かないだろうかとおもっていましたところ、昭和27年頃でしょうか、MITでシンシナティ・ミラクロン製のハイドロテルを改造して、コンピュータでコントロールする新しい工作機械を開発した、ということが紹介されました。それを聞きまして、これは非常におもしりそうだということで、当時カリフォルニア大学で教授をしておられた自動制御工学の高橋安人先生から、MITレポートなるもののマイクロフィルムをお借りして、それをもとに勉強を致しました。
(『黄色いロボット』)

 

このようにして、「何をしてもよろしい」と言われた後の様々な探索の末、稲葉はNCという分野を見出し、開発と事業化に邁進していくのです。(つづく)

 

※以上、『日本のものづくりを支えた ファナックとインテルの戦略』(柴田友厚著、光文社新書)から抜粋し、一部改変してお届けしました。

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柴田友厚(しばたともあつ)

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